「倶舎論」をめぐって

第7回 ローゼンベルグの周辺―余話「時代背景」-
 仏教以外のことで、ローゼンベルクの周囲に起こったことにも触れておきましょう。
すぐに思い浮かぶのは、日露戦争等を巡る日露関係のことでしょう。日露戦争は1904~1905年に行われました。ローゼンベルグの学生時代に相当する期間です。多感な時代に争われた戦争についてローゼンベルグが無関心であったとは、到底思われません。彼の来日は、何度か引用した池田澄達の文によると、1912年の五月です。この頃は、まだ明治で、日露戦争の余燼(よじん)もくすぶっていたことでしょう。7月に明治天皇が崩御(ほうぎょ)して、大正に改まります。そして、9月に乃木(のぎ)希(まれ)典(すけ)が殉死(じゅんし)いたします。乃木は、日露戦争では、旅(りょ)順(じゅん)包囲で知られています。ローゼンベルグもその名を知っていて当然でしょう。彼は、日本で乃木の殉死をじかに知って、何らかの感想を抱いたと想像されますが、彼の想いを伝える資料はありません。ただ、往時の雰囲気を伝える新聞記事を、引用して、時代の臭いを感じてもらいたいと存じます。雰囲気を壊さないように気を付けながら、現代文に直してみます。
 乃木将軍と外字新聞
   乃木大将殉死の報があった途端、当地各英字新聞紙は一段以上の記事にて大将の人物経歴および殉死の模様等をあげ旅順の英雄乃木大将はその愛する子供二名を君国に捧げ今や自身も夫人とともに先帝(せんてい)に殉死する。かかる壮烈(そうれつ)無比(むひ)の最後は武士道の権化(ごんげ)日本サムライの典型として世界の賛嘆する所である。日本の進歩戦勝は、この精神にその基礎を置くものというべし。なかんずく、乃木夫人が夫とともに従容(しょうよう)殉死したのは日本婦人の崇高な精神を示す模範であると言う。(大正元年九月十七日 火曜日「大阪朝日新聞」『朝日新聞に見る日本の歩み 屈折のデモクラシーI(大正元年―4年)』昭和50年、p.30,ルビは私の補足です)
この乃木殉死の記事は、きっと、ローゼンベルグも目にしたはずです。もう1つローゼンベルグの滞日当時を彷彿(ほうふつ)とさせるような話題を提供しておきましょう。近年、往時の姿で補修された東京駅は、大正3年に作られました。ローゼンベルグはその頃、日本にいたことでしょう。またも、当時の新聞記事を、現代語に直して引用してみましょう。
 東京駅の第一日
 -疲労を忘れて立働く駅員―
 -万事混雑を見ず至極便利―
 -乗降客よりは見物で一杯―
 新東京の心臓として帝都の一(いち)偉観(いかん)たる東京駅はいよいよ二十日午前五時二十分横須賀行の第一列車で、産声をあげた 旧新橋駅から夜通しで新東京駅へ転任した約二百名の駅員は檜舞台に立つ嬉しさに徹夜の疲労さえも忘れて少しの支障もなく運転に従事しているのはさすがに高橋駅長の『軍服を着ぬ兵隊さん』と誇るにそむかないと思われた折柄(おりがら)の日曜の事とて京浜間を通勤する会社銀行員の常連こそ減じたけれど霜晴れの日のポカヽと暖かく風さえもないので、物見高い東京の坊ちゃん嬢ちゃんの手をひいた夫婦連れや男女の学生、さてははるばる東京見物のついでらしい田舎の爺さんばあさんまで群をなして見物にやって来る。(大正三年十二月二十一日 東京朝日新聞 『朝日新聞に見る日本の歩み 屈折のデモクラシーI(大正元年―4年)』昭和50年、p.197、ルビは私の補足です)
記事はまだ続きますが長いので止めておきます。これで、ローゼンベルグのいた当時の日本の姿がいくらかでも、身近に感じられれば、幸いです。群集の中にローゼンベルグもいたかもしれないのです。肩の力を抜いて、『倶舎論』の話を聞いてもらえるように、ローゼンベルグを中心に、仏教とは関係のないような話題もお伝えしました。でも、これも仏教に関係する学問といえばいえるのです。どこからでも入っていける間口の広い分野が仏教です。これで『倶舎論』の余談めいた話は終わりにします。最後に、『倶舎
論』の概要を示しておきたいと存じます。

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