日本人の宗教観ーある観点ー

本覚思想と中世日本芸術
その1
はじめに、前回も利用した三崎氏の著書から言葉を引いて、今回のテーマをつかんでおきましょう。
 仏教は、目的としては成仏(じょうぶつ)を教えるが、各自に最大の努力をして煩悩(ぼんのう)を断つべきことを課する。だから美や芸術は、明らかに人間の価値認識上の志向性にもとづくから、宗教が指導するところの”人間的生存境位の価値的向上”ともつながっている。その点で宗教と芸術を、近代的な文化の概念に嵌(は)めこんでその諸相として各々を並列させる認め方がある。だが、美や芸術における向上がそのままで宗教的な目的達成になる、と考えうる人は多くはないであろう。ところが中世日本の”歌道(かどう)即(そく)仏道論(ぶつどうろん)”においては、生きる者としての行きつくべき究極地を詠歌(えいか)において完遂(かんすい)できるならばそれが仏道(ぶつどう)だ、と考えたのである。そこでは仏道とはそのように、歌人なら歌人として画師なら画師として、すべての人はその現実の十界(じゅつかい)に即して中道(ちゅうどう)実相(じっそう)を会得することであると信じられたのである。「煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい)」とは、このような道理を表示するタームとしても使われた。それゆえ、それは「生死(しょうじ)即(そく)涅槃(ねはん)」(いかなる生き方も端的に涅槃に直結する)というタームとともに、美と芸術を”人間生存は本来何であるか”にもとづかせて理解させうる標語と考えることができるのである。(三崎本、pp.103-104、ルビは私)
簡単に言うと、「芸術を極めることは仏教を極めることと同じである」という思想が、中世日本では一般化した、ということです。その思想とは言うまでもなく、先に学んだ「本(ほん)覚(がく)思想(しそう)」です。三崎氏は、それを「止観的(しかんてき)美意識(びいしき)」等と呼んでいました。芸術と仏教を一体にするような思想、即ち「本覚思想」のキャッチフレーズが「煩悩即菩提」なのです。まず、三崎氏の文章に出てくる聞きなれない言葉の説明をしましょう。「歌道即仏道論」とは、和歌を極めることはイコール仏道を極めることである、という意味で、三崎氏の造語です。後に詳しく見ていきますが、和歌の世界では、先頭を切って、仏教を積極的に取り入れました。
前回軽く触れた西行(さいぎょう)はその好例です。次に「十界」とは、仏教的世界観を示す言葉で、人間には人間界があり、地獄には地獄界があるという風に、様々な世界が10存在するという意味です。「中道実相」とは、仏教の根本的真理「中」こそが物事の真相であるという意味です。中は、極論を嫌うということで、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』等に頻繁(ひんぱん)に出る「空(くう)」に通じます。「色即是空(しきそくぜくう)」のフレーズで、知っている方も多いと思いますけれど、内容を簡単に説明しておきましょう。空とは基本的には「無」と同義です。つまり「ない」ということです。ただし、何がないかが肝心(かんじん)なところで、物事の本質がない、即ち物事の本質は空なのである、と説きます。仏教では、人間にも本質はないと言います。人間の本質と見える、永遠なる魂のようなものを認めません。これを「無我(むが)」と称します。この考え方は、仏教のどんな宗派に
もありますが、上のような本覚思想をめぐる文脈では、龍樹(りゅうじゅ)(Nagarjuna、ナーガールジュナ)の思想を言う、と考えられます。龍樹はインド人で、空や中を広め、その名声は中国や日本でも圧倒的です。

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