仏教余話

その89
石飛博士のブログは、仏教論理学の終焉、仏教の消滅にも、簡単に触れているが、ここで、現代インドにおいて、仏教復興の最大の立役者となった人物の事跡についても、見ておこう。教理的なことで悩まされた頭の気分転換として、聞いてもらいたい。
 アンベードカル〔B.R.Ambedkar〕は、西インドに位置するマハーラーシュトラを中心に居住する代表的な不可触民マハールの生まれである。マハールは伝統的に、動物の死骸の片付けなどを含む、村落の雑務に従事してきた。アンベードカルは彼の母親が生涯に生んだ十四人の子供の末子だった。…父親は兵営学校の校長だった。アンベードカルは当時の不可触民としては、異例ともいえる高学歴を達成した。一九一二年にエルフィストン・カレッジを卒業後、バローダー藩王の援助で、アメリカのコロンビア大学で修士号、博士号を取得し、さらに、イギリスのロンドン大学でも博士号をとり、弁護士の資格も獲得した。しかし、高学歴もカーストの差別からアンベードカルを守ることはなかった。上位カーストである部下から書類を投げつけられたり(手渡しは、不浄を発生させる)、家探しでたびたび屈辱的な経験を味わう。アンベードカルは一九○六年に十四歳で、九歳のラマーバーイ(一八九六~一九三五)と結婚し、五人の子供をもうけたが、一人を残し、四人の子供を早く失った。ラーマバーイは一九三五年に亡くなり、アンベードカルは一九四八年、バラモン出身の医師シャールダー・カビールと再婚した。『ムークナーヤク(声なき者の指導者)』(一九二○年)を皮切りに、ジャーナリズムの分野でカースト差別の廃絶と不可触民の諸権利を要求する論陣を張るとともに、一九二四年には、被抑圧階級福祉協会を組織した。一九二七年には、マハードにあるチョウダール貯水池を不可触民に解放させる示威運動を展開した。この際、カースト制度を擁護する権威書として『マヌ法典』を公の場で焼いたというエピソードは有名である。一九三○~三五にかけて、不可触民への寺院解放を要求するサティヤーグラハ運動も指導した。一九三六年には独立労働党を、一九四二には全インド指定カースト連合を結成する。アンベードカルが創設を考えていたインド共和党が実際結成されたのは、アンベードカルの死後一九五八年だった。しかし、同党は内部分裂を繰り返し、有効な政治勢力に成長しなかった。アンベードカルの有名なスローガン「教育せよ、アジテートせよ、団結せよ」は、一九四二年、ナーグプルで開催された被抑圧階級協議会でのスピーチから生まれた。…アンベードカルは一九二八年、ボンベイ立法議会に任命議員として選出され、一九四二年から総督の参事会で労働担当大臣、一九四七年からは憲政議会メンバーなどを歴任する。また、独立後最初の内閣には法務大臣として加わり、インド憲法の起草委員長を務めた。かつて『マヌ法典』を焼いた人物がインド憲法起草の立役者となり「現代のマヌ」と称されるのは皮肉である。アンベードカルは、不可触民の解放をめぐって、ガンディーと鋭く対立した。ガンディーにとって不可触制は真のヒンドゥー教からの単なる逸脱であり、カースト制度と宗教としてのヒンドゥー教は無関係だった。さらに、ヴァルナーシュラマ(ヴァルナ[四姓]と四住期[学生期・家住期・林棲期・遊行期]を理想とする思想)をガンディーは擁護した。ガンディーによれば、ヴァルナは生まれではなく、個人の資質によって決定されるのであり、どの職業にも貴賎はなかった。ときにガンディーは、ヴァルナは調和的な分業を保証し、階級闘争を回避させるものとして評価もした。不可触制度をヒンドゥー教の不可分の一部とみなし、ヒンドゥー教を宗教の権威に支えられた差別の体系とみなすアンベードカルと、ガンディーの距離は明らかだった。両者の対立は、一九三一年にロンドンで開催された第二回円卓会議で一つの頂点に達した。アンベードカルが要求した不可触民への分離選挙権を認めたイギリス首相マクドナルドの裁定にたいして、ガンディーは「死に至る断食」をもって抵抗した(一九三二年)最終的にはアンベードカルは折れ、分離選挙権をあきらめ、留保議席の増加で妥協した。一九三二年からガンディーは、不可触民の地位向上をめざす運動(全インド反不可触制度連盟からハリジャン奉仕団へと改称)を組織し、『ハリジャン』紙も創刊する。しかし、あくまでも不可触民をヒンドゥーの一部として回収することをめざし、しかも、不可触民自身にイニシアチブを与えず、上位カーストの「改心」によって問題を解決しようとした。ガンディーに対するアンベードカルの不信は徹底していた。…(粟屋利江「近代から現代へ」『新アジア仏教史02インドII 仏教の形成と展開』平成22年所収pp.360-363、〔 〕内私の補足)
 
 

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