「倶舎論」をめぐって
LXXXIII
他に重要と思われる博士の見解をいくつか紹介しておこう。
『順正理論』と『アビダルマディーパ』では、漢訳で見る限り、『順正理論』はAKBh〔=Abhidhrma-Kosa-Bhasya、=『倶舎論』〕の偈を採用しつつ世親の説を論破するが、ADV〔=Abhidharma-Dipa-Vbhasaptabhavrtti,=『アビダルマディーパ』〕はまったく新たな偈を作って説一切有部の教理を述べており、ヤショーミトラが衆賢の説であると断定している説のなかに、ADV.に一致する箇所があることを吟味した。ディーパカーラは衆賢か、衆賢の弟子である可能性もあるが、ADV.には衆賢について一言も触れておらず、『順正理論』と一致しているとされる学説も、じつはAKBh.の説であることを証明した。『順正理論』と立場を同じくするADVがなぜ衆賢を無視しているのか疑問が残るが、ADV.には『順正理論』とまったく一致する箇所が発見できたから、ディーパカーラが衆賢の『順正理論』を知らなかったとは言えず、そのよき所は採用し、批判すべきところや賛同できないときには、無言のまま自身の学説を述べたり、もしくは世親説を採用した箇所を指摘しているから、ディーパカーラは衆賢よりも後代の人物であることを論証した。(三友建容『アビダルマディーパの研究』平成19年、p.808,〔 〕内は私の補足)
これは、全くの感想でしかないが、私は、『アビダルマ灯論』そのものの由来を疑っている。一体、世親批判において、衆賢説に言及しないということは、ありえるのだろうか。衆賢の『順正理論』は漢訳でしか完備していない。漢訳文化圏の伝統の中では、『順正理論』を世親批判に用いることは当たり前であろう。だが、その文化圏からずれたところではどうだろうか。『アビダルマ灯論』はチベットで発見されたという。チベットで『順正理論』を縦横に利用する伝統はあっただろうか。私の印象では、恐らく、ない。とすれば、世親の『倶舎論』批判に際し、『順正理論』を使う必然性も薄い。つまり、『アビダルマ灯論』が漢訳文化圏以外で作られた後世の捏造であれば、『順正理論』への言及がなくても、納得出来るのである。
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