日本人の宗教観ーある観点ー

その5
島地に戻りましょう。島地は確かに、先駆者ですが、本覚思想の細かいところまでは、当時は、研究が及んでいなかったと考えてよいでしょう。しかし、島地の批判精神は立派です。つまり、彼は、本覚思想を絶対視していませんし、それへの非難も躊躇(ちゅうちょ)しません。そのような態度は、見事です。先に何度も引用させてもらった三崎氏の著作等を見ていると、ともすれば、本覚思想が何よりも優れた思想であるという感想を抱いてしまいます。しかし、それは危険なことなのです。三崎氏に批判精神がないと言っているのではありません。でも、氏の著書を読む我々はどうでしょう。いつしか目がくらみがちになり、本覚思想を冷静に見る事が難しくなっていないでしょうか?人とはそういうものです。島地は、釘をさすことを忘れません。以下のように、批判を繰り返します。
 本覚思想なるものは、あまりに自由大胆なる一面をもっているので、その絶待(ぜつたい)肯定主義は、当然然(しか)らざるを得ないのである。そが道徳や、信念やを肯定するが如く、同様に罪業、無信をだも肯定せんとするものである。かヽる道徳的欠陥は、その他面の芸術的感興(かんこう)と相待(あいま)ち…更に外的には、…野合性を発揮するに及んだのである。かくして、その教学は、あくまで雑(ざつ)乱(らん)堕落(だらく)するにいたった。(日本思想体系9『天台本覺論』1973年、p.33、ルビは私、1部標記を変更した)
このように述べている島地大等には、島地黙(もく)雷(らい)(18368-1911)という父がいます。私の知る範囲では、この人は、本覚思想を真正面から論じているものは目にしていませんが、言葉の端々(はしばし)に本覚思想を意識していることを感じさせてくれる。文章を残しています。気づいた範囲で、いくつか引用してみましょう。彼の全集に収められた「神仏関係論」という論文には、こうあります。
 昔は神仏の際本迹(ほんじゃく)二門の説あり、仏者(ぶっしゃ)の諸神を敬すべき所以(ゆえん)の理立つ。維新(いしん)の際之(これ)を判然(はんぜん)せらる。而(しか)して仏者に帰敬(ききょう)するの道断つ。本邦(ほんぽう)古昔(こじゃく)神仏二道あり。而(しか)して教(おしえ)は専(もっぱ)ら仏教也。本迹の説立て、神も亦(また)仏中(ぶっちゅう)に入(い)て妨げなく、以て今日に伝わるに至る。(『島地黙雷全集 第一巻』1973年、pp.360-364、ルビ私、1部標記を変更した)
難しい文章なので、まず解説してみましょう。この論文は、そもそも、明治維新の国家(こっか)神道(しんとう)と廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)、すなわち神道を絶対視し、仏教を排斥しようとしたことに異議を唱えるために書かれたものです。この点を頭に入れておいて読んでも、分かりにくいですね。現代語訳してみましょう。恐らくこういう意味でしょう。
 昔は、神と仏を論じる際、どちらを本とするか、どちらをその降臨とするか2つの立場があった。そのため、仏を本とし、神をその降臨と見なす、仏教者にも神を敬う理由も成り立った。ところが、明治維新の時、神と仏を完全に分けてしまった。おかげで、仏教者が神を敬う道も断たれた。わが国は、昔から神道と仏教の2つがあった。そして、理論面はもっぱら仏教が受け持った。本地垂迹という説を立てて、神も仏の中に加えて何の問題もなかった。それが今日まで伝わっているのである。
はじめに神と仏の両立を成し遂げたのは、本覚思想に由来する「本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)」であると説明しました。島地黙雷の言葉は、それを完全に踏まえてのものであると推測出来ます。島地大等の本覚思想論は、父島地黙雷譲(ゆず)りのものだったのかもしれません。
少し、違った側面から、本覚思想的な考えを、他の宗教の中にも探ってみましょう。キリスト教にも似たような考えはあります。以下のようなものです。
 神はあらゆる被造物(ひぞうぶつ)のなかに存在し、甲のなかに存在する神は、乙のそれと異ならない。神の本質が葛の葉にも存在することは最も輝かしい天使の場合に劣らない。われわれのなかにあるもの以外に、また全被造物のなかにあるもの以外に神は存在しない。だから人は、彼らのなかにある神以外にたいして、祈り求めるべきではない。……ランターズのひとりは〈いやしくも神が存在するとすれば、自分がそれである〉と言った。(由良君美「ランターズ談義」『椿説泰西浪漫派文學談義』1983年、p.160)
このような考え方を、汎神論(はんしんろん)といいます。これは、前に紹介した『平家物語』の以下の言葉とそっくりですね。
仏も昔は凡夫(ぼんぶ)(=ただの人)なり、われらも終には仏なり
 何れも仏性(ぶっしょう)具(ぐ)せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
洋の東西を問わず、似たような思想はあるものです。しかし、「草木(そうもく)国土(こくど)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」をスローガンとする本覚思想ほど、極端な現実肯定主義の思想は、他には類がありません。ここで、はじめに皆さんに伝えたこと。すなわち、エコや「もったいない」、「かわいい」文化、「ゆるキャラ」等がどうして本覚思想と結びつくのか、私流の解説をしてみましょう。勘のいい方は、とっくにおわかりでしょうが、聞いて下さい。まず、エコや「もったいない」は、自然との一体感を前提とします。日本人には、ごく当たり前の考えですね。この点はご理解頂けると思います。そして、その感情は、実は、遠い昔に盛んだった「本覚思想」に由来していることも、この授業を通して、ある程度納得してもらえると存じます。「山川草木悉有仏性」は、明解な証拠だと思います。「かわいい文化」も「ゆるキャラ」も、恐らく、本覚思想を一ひねりしたものであると思います。すべてが、「仏の世界」というのが本覚思想の基盤です。そこには、どんなに変わったものがいても一向にかまわないはずです。非現実的な「ゆるキャラ」がいてもいいし、非日常的なかわいいグッズがあっても、やはり仏の世界に含まれます。現実離れしていることも、「仏の世界」という確かな足場を持てるのです。ですから、すべてが許されるので、安心して、非現実的なことを創造出来るようになります。アニメや漫画隆盛も、そうした感情がもたらしたものでしょう。一見、強引な主張のように写るかもしれませんが、全く、根拠のない話ではありません。本覚思想という言葉を、どうぞ、覚えておいて下さい。

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