Tips of Buddhism
No.62
I was intrigued by the Pudgalavada’s apparent denial of the doctrine of non-self.The matter proved to be more complex than I had supposed,and discovery that the Pudgalavada once had a very substantial following in India made me realize that this was not a small sect on the fringes of Buddhism,but rather an integral part of the Indian Buddhist tradition.(L.C.D.C.Priestley,Pudgalavada Buddhism the Reality of the Indeterminate Self,1999,p.vii)
(訳)
私は、プドガラ論が無我の教義を、明白に否定していることに興味をそそられていた。事は、私の予想を超えて、複雑さを示すもので、プドガラ論は、かつてインドでは、非常に多くの支持者がいたという。この出会いは、私に以下のことを納得させたのである。つまり、これが、仏教の周辺部の小さな宗派のものではなく、インド仏教の主要部であったことである。
(解説)
釈迦の滅後、無数の部派が現われ、消えていった。どの部派がどのような教えを信奉していたかは、まだわからない。その様子を以下に伝えてみよう。
師〔世尊〕入滅から、116年、華子(かし)城(じょう)というところで、王ダルマアショーカと言う者が、国政を行う時、ある論議の法が起こったことをきっかけとし、僧伽(そうぎゃ)の分断が大きくなり、それから、先ず、2部に分かれて住み、大衆部(だいしゅぶ)と上座部(じょうざ)〔となった〕。そのうち、大衆部は、さらに、次第に、別れることになった際、8種類として住した。以下のように、大衆部、一説部(いっせつぶ)、説(せつ)出世部(しゅっせぶ)、多聞部(たもんぶ)、説(せっ)仮部(けぶ)、制(せい)多部(たぶ)、東山部(とうざんぶ)、西山部(せいざんぶ)等である。
上座部も、次第に、別れることとなり、10種類として、住した。以下のように、即ち、上座部、説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)、犢子部(とくしぶ)、法(ほう)上部(じょうぶ)、賢(けん)道部(どうぶ)(=賢(けん)冑部(ちゅうぶ))、一切所(いっさいしょ)貴部(きぶ)(=正量部(しょうりょうぶ))、多説部(たせつぶ)(=化地部(けじぶ))、法蔵部(ほうぞうぶ)、善(ぜん)雨部(うぶ)(=飲光部(おんこうぶ))、上人部(しょうにんぶ)(=説転部(せつてんぶ))と言われるもの等である。そのうち、上座部の第2の名は、雪山部(せつざんぶ)とも言うのである。〔説一切〕有部の別名も、分別説部(ふんべつせつぶ)、または、説因部(せついんぶ)、さらに、ある者は、ムトゥンタカ部とも言う。一切所貴部(正量部)の別名は、アパナタカ部、クルクッラ部とも言うのである。善雨部の第2の名は、飲光部とも言う。上人部についても、ある者は、説転部と言う。
これは、バヴヤ(Bhavya)というインド人学僧の著書、『思択炎(しちゃくえん)』Tarkajvala(タルカ・ジヴァーラー)の1部である。聞きなれない部派名がたくさん出てくる。このうち、プドガラ論者として有名なのは、犢子部である。著名な著書、世親(せしん)作『倶舎論(くしゃろん)』の第9章は、犢子部批判をメインとしている。その後、インド仏教を代表するような『真理(しんり)綱要(こうよう)』Tattvasamgrahaでも、犢子部は批判された。まさしく、仏教にとって、獅子(しし)身中(しんちゅう)の虫だったわけである。引用は、チャンキャ(lCang skya, 1717-86)という有名なチベット人学僧の著書からである。彼は、中観派の立場から、上の学派すべてを、以下のように批判する。
その原則は、一切所貴部〔等の〕5部に限らず、毘婆沙師(びばしゃし)すべてにも、等しいからである。毘婆沙師すべてが、人格(=プドガラ)は真実であると主張し、真実の意味は安住で、また、他に依存しない実体であると〔我々が信奉する〕中観帰謬派(ちゅうがんきびゅうは)の論理で、押しやることが出来るので、一切所貴部〔等の〕5部だけを見て、〔毘婆沙師と〕限定するのは、無意味となるからである。それに止まらず、これは、人格の実体を認める者であると、聖一切智者〔ツォンカパ〕が、明瞭に解説しているのである。
中観派の立場から言えば、説一切有部を始めとする部派仏教は、すべて否定対象である。その理由は、彼らが実在論を説くからであるとされる。無我を標榜(ひょうぼう)する仏教にあって、我を彷彿(ほうふつ)とさせるプドガラは、まず、あってはならないものである。