仏教余話
その120
面白いことに、これとよく似た考えを持つ者達に、イギリスのある宗教団体がいた。由良君美氏は、その者達の考えをこう紹介している。
神はあらゆる被造物のなかに存在し、甲のなかに存在する神は、乙のそれと異ならない。神の本質が葛の葉にも存在することは最も輝かしい天使の場合に劣らない。われわれのなかにあるもの以外に、また全被造物のなかにあるもの以外に神は存在しない。だから人は、彼らのなかにある神以外にたいして、祈り求めるべきではない。……ランターズのひとりは〈いやしくも神が存在するとすれば、自分がそれである〉と言った。(由良君美抜粋『椿説泰西浪漫派文學談義』1983年、「ランターズ談義」p.160)
よく似ているという印象を受けるに違いない。このような連中のことを、もう少し、詳しく、見てみたい。
既成教会秩序内での神秘主義を拒否する態度から、〈自由心霊〉の信徒たち、ひいては〈ランダーズ〉のなかに、著るしい主体主義の態度が生れ、自分が絶対の境地に到達したという信念がこの態度に結びつくとき、自分が罪を犯すことはありえないという確信を生む。ゆきすぎれば、これは〈道徳律廃棄論〉であり、通常〈禁断〉とされていることも自分だけには許されるという結論―〈完全人〉という結論を生みやすかった。沢山のラスコーリニコフたちを生んだ根拠がこれである。とりわけ貞潔に特別の価値を与え、婚外交渉を罪とするキリスト教文明のなかでは、道徳律廃棄論はたいてい乱交に結びつく。そこで他の宗教セクトからの非難攻撃も、この点をとりあげるのが常套になる。しかし非難攻撃は逆に、自由な愛こそ精神的解放なりとして、特別の象徴的価値をもつものと見なす傾向を現出さす。自己神格化→道徳律廃棄論→性アナーキーの観念連鎖が、かくして〈自由心霊〉と切れないものになる。みずから精霊を所有した神の受肉であると称した一二世紀アントワープのメシア、タンケルムの精神を継ぐ一五世紀のトゥリテミウス修道長の動きを経て、一二世紀以来の連綿たる〈自由心霊〉の水脈を、北フランス・オランダ・ベルギー・ライン沿岸地方に植えつけることになる。注目すべきことは、この〈自由心霊〉の担い手だったのは放浪説教者たちで、織匠ないし織工であり、下層職人であったことで、転々と名前を変えながら各地を説いて廻っていたらしいことである。〈ランターズ〉が下層職人たちに多く、ブレイクも下層職人の彫版師であったことは、この点でも興味ふかい。〈ランターズ〉発祥の時期は不明だが、もっとも顕著に活動したのは、クロムウェルによるチャールズ一世の処刑(一六四九)の頃から護民官制の確立期(一六五三)頃であったといわれる。(由良君美抜粋『椿説泰西浪漫派文學談義』1983年、「ランターズ談義」pp.155-156)
ついでなので、余話として触れてみた。