世親とサーンキヤ

その17

『倶舎論』の著名な注釈『明瞭義』Tattvarthaで、作者ヤショーミトラは、驚くような発言をしている。彼はいう。
 サーンキヤ思想に従えば、「有からだけ生起するが、無からではない」というので、それを取り上げて、〔『倶舎論』では〕、「前にあったとしても、あるいは」と言及されているのである。「あるいは」という言葉は、他の思想を選別するためである。もし、汝らの立場が「有が生起する」というのであれば、我々も、「有が生起する」のである。つまり、毘婆沙師の流儀では、「未来は有たるもの」であり、経量部の流儀では、「生起させるダ
ルマたる種子は、有という存在である」故に。(山口益・舟橋一哉『倶舎論の原典解明 世
間品』昭和30年、p.213を参照した)
 tatha hi Samkhya-matanusarena sata evotpada nasata iti tad etad adhikrtya braviti.san pura ‘pi veti.va-sabdo mata-vikalparthah.yadi bhavatam sann utpadyata iti paksah.asmakam api sann utpadyate/Vibhasika-nayayenanagatanam astitvat.Sautrantika-nayena ca
janaka-dharma-bija-sadbhavat.(S:p..359,U.Wogihara ed. Sphutartha Abhidharmakosavyakya the Work of Yasomitra,Tokyo,1989 rep. of 1936,p.295,ll.28-32,サンスクリット原典ローマ字転写)
 
grangs can pa’i gzhun lugs kyi rjes su ‘brangs na yod pa kho na skye’i med pa ni ma yin no//zhes ‘byung bas de’i dbang du byas te/’on te snga na yod na yang rung zhesbya ba smos so//’on te zhes bya ba ni sgra ni gzhun lugs tha  dad pa’i don yin te/gal te khyod kyi phyogs yod pa skye ‘o//zhes bya ba yin na kho bo cag gi yang yod pa skye ste bye brag tu smra ba’i lugs kyi ma ‘ongs pa yod pa’i phyir dang/mdo sde pa’i lugs kyis kyang skye bar byed pa’i chos sa bon yod pa’i phyir ro//(北京版、No.5593,Cu,328b/3-6、チベット語訳ローマ字転写)
これによれば、サーンキヤも毘婆沙師も経量部も、「有の思想」という点では、同一なのである。このように、他学派だからといっても、常に、批判相手なのではない。安易なセクト分けは、インド思想界の実態を考察するには、却って、邪魔である。『真理綱要』及び「難語釈」講読の際も、虚心に読むことが肝要であろう。先に示した文章も再度思い出して欲しい。以下のようなものであった。
 更に、〔様々なものは〕それ〔楽等、即ちそれを生み出す3構成要素〕に必ず付随するということから、それ〔3個性要素〕を本質(maya,bdag nyid)とするprakrti(自性)から生じたものであることが成立する。そのことが成立する場合、暗に(samarthyad,shugs kyis)、このprakrti(自性)なるものは、〔様々なものの原料となる〕pradhana(根本原質)であることが成立する。〔つまり〕、根本原質は存在するのである。様々なものは〔根本
原質に〕必ず付随することが見られるからである。
tadanvayac ca tanmayaprakrtisambhutatvam siddham,tatsiddhau ca samarthyad ya ‘sau prakrtis tatpradhanam iti siddham asti pradhanam bhedanam anvayadarsanad
iti/(G.O.S.,p.21,ll.14-15)
de grub pa na yang shugs kyis rang bzhin gang yin pa de ni gtso bo yin no zhes byabar grub bo//gtso bo yod na tha dad pa dag rjes su ‘gro bar mthong pa’i phyir ro//(デルゲ版、Ze,151a/2-3)
私は、ここに根本原質(pradhana)と自性(prakrti)を単純にイコールで結べない可能性を感じる。故に、少なくとも、『真理綱要』及び「難語釈」を見る限り、次のような類の説明は、すべてのサーンキヤ思想に通低するとは思えないのである。
 prakrti(作るもの・質料因)・pradhana(優れたもの)或いはavyakta(変化せぬもの)等と呼ばれる根本原質(mula-prakriti)…(本田恵『サーンキヤ哲学研究』上、昭和55年、p.354)

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