性相学
その7
性相学=唯識に心引かれた文学者は、三島だけではない。明治の文豪、森鴎外もその1人である。岡崎義恵氏の著書には、次のような下りがある。
「唯識の勉強ヤツト五巻の半(第三能變)〔アーラヤ意識→マナ識→六識〕迄ハカドリ候イヤハヤ讀メバ讀程面倒ナル事ニ候」(明治三十五年十月二十六日、大西西崖宛書簡、全集二十二巻、二八八頁)という言葉によると、餘り深く勉強してゐるようでもない。結局鴎外の佛敎に對する造詣は、「佛敎の唯識論とハルトマンとの間などにも餘程妙なる關系あり此の如き事を考ふれば私の如く信仰といふこともなく安心立命とは行かぬ流義の
人間にても多少世間の事に苦しめらるることなく自得するやうなる處も有之よう存候」(明治三十五年月不祥、森峰子宛書簡、第二十二巻、九八頁)といふ程度のものであったと思われる。(岡崎義恵「歴史小説の理想主義的態度」『鴎外と諦念』昭和44年、p.539、〔 〕内私の補足)
ここに見られるように、鴎外は唯識=性相学を学んだ。小倉赴任時代に触れたのである。小倉には、玉水俊交虎(たまみず・しゅんこ、最後の「交虎・こ」の字は変換出来なかった、「へん」は交、「つくり」は虎の1字)という学僧がいて、鴎外に唯識を講じたらしい。玉水俊交虎は、駒澤大学の前身である曹洞宗大学林に入り、更に、大谷大学で唯識の研鑽を積んだ。玉水に関する詳しい論考があるので、紹介しておこう。山崎一頴氏は、先ず、以下のように、鴎外の小説を皮切りにして、諭を始めている。
「私は無妻で小倉へ往つて、妻を連れて東京へ帰った。しかし私に附いて来た人は妻ばかりではなくて、今一人すぐに跡から来た人がある。それはまだ年の若い僧侶で、私の内では安国寺さんと呼んでゐた。安国寺さんは、私が小倉で京町の家に引き越した頃から、毎日私の所へ来ることになった。私が役所から帰つて見ると、きつと安国寺さんが来て待つてゐて、夕食の時までゐる。此間に私は安国寺さんにドイツ文の哲学入門の訳読をして上げる。安国寺さんは又私に唯識論の講義をしてくれるのである。安国寺さんを送りに出してから、私は夕食をして馬借町の宣教師の所へフランス語を習ひひ往つた。(「二人の友」大正四・六)
この小説で安国寺さんと呼ばれている僧侶は、太平山安国寺の玉水俊交虎(たまみずしゅんこ)である。鴎外は俊交虎のために独逸語及び独逸哲学を講じ、俊交虎は鴎外のために唯識を講じた。(山崎一頴「玉水俊交虎―鴎外ゆかりの人々 その四―」『評言と構想』1979,p.5)
山崎氏は、玉水俊交虎が鴎外に与えた影響は軽くないとし、次のようにいう。
『二人の友』(大正四・六)では「学徳があつて世情に疎く、赤子の心を持つている安国寺さん」を描き、『独身』(明治四三・一)では「殆ど無間断に微笑を湛へ」つつ、「飄然」たる風姿の俊交虎を点描している。この俊交虎との出会いが鴎外の精神生活に及ばなかったはずはない。当時無念遣る方ない心を抱いていた鴎外にとって、唯識を自在に解釈する高い学識を持ちながら荒寺に住み、常に微笑をもって物事に捉われない飄然とした俊交虎の姿は感動的であったろう。…そう考えると、俊交虎との邂逅はまさに一期一会であったと言わねばならない。(山崎一頴「玉水俊交虎―鴎外ゆかりの人々 その四―」『評言と構想』1979,p.14)
鴎外は玉水俊交虎に、本格的に唯識を学ぶ前に、ハルトマン(E.v.Hartmann、1842-1906)という哲学者の影響を受け、ハルトマンの『無意識の哲学』Philosophie des Unbewassten、更に、大村西崖との共著で、ハルトマンの『美の哲学』Philosophie des Schoenenを『審美綱領』と名付け、訳した。その序文には「僧佉論師の執計に較似ありと雖も、談理多くは相宗大乗の玄旨に同帰す」(インドのサーンキヤ学派の思考法によく似ているが、内容のほとんどは、仏教の法相宗の奥義に帰す)とある。従って、鴎外は、法相宗的な性相学とともに、サーンキヤの知識も持ち合わせていたのである。詳しい説明は省くが、性相学=唯識の心一元論と、サーンキヤの根本原質(prakrti,プラクリティ)展開論は酷似しているのである。
さて、鴎外の学んだ性相学=唯識とは、どのようなものであったのか?それについては、大塚美保氏の詳細な研究がある。大塚氏はいう。
〔岡崎義恵氏の著書引用の手紙にも出てきた〕この「第三能変」とは〔玄奘が編纂した法相宗の聖典〕『成唯識論』第五巻の題に他ならない。さらに『唯識鈔』と題された和綴本も残っている。自筆写本の扱いを受けているが、実質的には鴎外の唯識研究ノートといえる。内容は、順に〔世親作〕『唯識三十頌』全文の筆写、唯識学の宗派・伝通経路・所依経論および参考書の概説、『成唯識論』第七巻までの重要語彙・思想等の抄出、メモなどで、全一〇八丁におよぶ。小川宏氏の見解どおり、内容から小倉時代の唯識研究の産物と判断してまちがいなかろう。これらの蔵本から、鴎外の唯識研究のテキストは『唯識三十頌』およびその注釈書『成唯識論』であったと見てよい。(大塚美保「芦屋処女のゆくえー鴎外と唯識思想―」『日本近代文学』50,1994,p.5、〔 〕内私の補足)
ここにある『唯識鈔』については、小川宏氏が、次のように述べている。
唯識学に志す人が一見すれば、さながら成唯識論の分科や同学鈔の目録を見るが如き感を抱くであろう。それほどよく唯識学上の問題点を集めており、又その解説も簡にして要を得、肯綮に当たる事多く、唯識学に関心を持つ私も感服する処数多い。(小川宏「「唯識鈔」と「華厳鈔五教書」について」『図書館の窓』vol.13,No.4,1974.4,pp.34-35)
では、具体的に、鴎外の作品に中に、唯識=性相学が現れるであろうか?鴎外には「生田河」という戯曲がある。そこに登場する僧は、台詞として、『唯識三十頌』の漢訳をいくつも唱える。大塚美保氏は、その意味を、以下のように解釈する。
唯識の教えに即して考えれば、この煩悩に満ちた世界も畢竟処女自身の《見られる心》〔所取、grahya〕に過ぎない。その意味で『生田川』の《窓》は象徴的な意味を持つ。《窓》の外には二人の壮士の鵠〔くぐい〕をめぐる争いが展開する。注意したいのは、芦屋処女の内面の葛藤そのものの相であるこの闘争を見ているのは、ただ一人、処女本人だけだということである。窓外の出来事の実在性を支えているのは芦屋処女の語りのみ、母もその観客もその景を一度として実見してはいないのである。…《窓》の外の景は、まさに処女自身の阿頼耶識によって現出させられた、処女自身にしか見えない「虚妄分別」〔こもう・ふんべつ、abhuta-parikalpa〕の影像〔ようぞう、pratibimba〕と言うべきである。処女が自己の《見る心》〔能取、grahaka〕を滅却するならば、彼女自身の《見られる心》にほかならないこの葛藤も現前しえないのである。(大塚美保「芦屋処女のゆくえー鴎外と唯識思想―」『日本近代文学』50,1994,pp.9-10,〔 〕内私の補足)
今も昔も、文学・文芸的営為には、性相学=唯識は魅力的である、ということであろう。