仏教余話

その51
ついでに「批判仏教」に至るまでの、日本仏教のあり方をも一瞥しておきた方がよいだろう。前にも述べたことがあるが、仏教研究へのアプローチの仕方そのものが、実は、大きな問題であるからだ。まず、何世代か前の偉大な研究者、宇井伯寿から始めねばならない。彼は、中村元の師に当たり、実質的に、日本のインド哲学を創生した人物である。末木文美士氏は、こう活写する。
 〔宇井伯寿が大著『仏教汎論』において〕「仏教は元来世間の政治に関係すべきものでない」(一○七○頁)という宇井の断固とした姿勢は、それが普遍的に妥当するかどうかはともかく、戦争中に積極的な戦争協力から距離をおくという立場を可能にした。しかし、仏教の中での日本中心主義を免れることはできなかった。この日本中心主義もまた、宇井に限らない日本の仏教学の一つの特徴と言ってよい。仏教信仰の伝統を持たない欧米の仏教学が、さまざまな価値観や視点を可能にしたのに対して、もともと伝統として仏教文化をもつアジアにあっては、それぞれ自国、自民族の立場に立ち、それを最高とする傾向が強い。その点は日本だけに限らない。しかし、ともあれ日本仏教を究極と見ることによって、宇井の仏教学は伝統的な諸宗派の立場と結びつくことになる。日本仏教の諸派は、最新の文献学という武器を手に入れることで、自らの護教論の再建が可能となったのであり、まさに『仏教汎論』はそれを成しとげているのである。…『仏教汎論』は、根本仏教と日本仏教を両極端とし、その間にさまざまな教理思想を配置し、仏教に一貫性を主張するとともに、日本仏教の優越を主張しようとしている。そして、その日本仏教は、天皇制下に国民が自己の職分に励むところに、その理想が見いだされることになるのである。(末木文美士『近代日本と仏教 近代日本の思想・再考II』2004年、pp.227-229,〔 〕内私の補足)


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