仏教余話

その130
『大乗起信論』とは直接関係ないが、明治という時代の仏教を知るために、人々を騒がせた、ある議論を紹介しておこう。明治に入って、仏教は旧来のセクト主義的な仏教では、通用しなくなってきていた。西洋化の嵐は、仏教界に、サンスクリット語やパーリ語を用いる、欧米の研究スタイルを持ち込んだからである。そのような風潮を受けてか、村上専精(むらかみせんしょう)という研究者が、「大乗非仏説論」なるものを唱えた。彼は、この論により、原担山の如く、破門された。そして、村上もまた、東大の講師として、後のインド哲学を形成するリーダーの1人となるのだから、明治という時代は、不思議である。先ず、村上の破門の様子を伝える、当時の記事を紹介しておきたい。この記事は、近角常観(ちかずみ・じょうかん、1897-1941)という明治から昭和にかけて活躍した僧が中心
となった雑誌『政敎時報』に載ったものである。近角は、今でこそ名前を聞かない僧侶であるが、当時は非常に高名で、アインシュタイン来日の際に、仏教について語った人物である。彼の主宰する『政敎時報』には、次のように記されている。
 村上博士僧籍返還の顛末
 村上博士僧籍返還の顛末と題し「日本」新聞記する所如左〔さのごとし〕
 大谷派本願寺末寺なる、村上専精〔むらかみ・せんしょう〕佛敎統一論を公〔おおやけ〕にしたるより、議論沸騰し本山に在りては一派に對して、宗義に異論を立て異議を説くものには一歩をも許さず、極刑として宗門以外に賓斥〔ひんせき〕し以て僧籍癈牒〔そうせき。はいちょう〕を奪ふの先例あり。先きには能登靈崎頓成、占部觀順何れも大谷派の碩徳〔せきとく〕なれけるが、宗義に異説を主張し、門徒〔もんと〕の極樂往生一向専念〔ごくらくおうじょう・いっこうせんねん〕にまよいを與〔あた〕へしとて、所謂〔いわゆる〕極刑の賓斥〔ひんせき〕に處〔しょ〕せられし先例あり、同じ三河國〔みかわのくに〕より出〔いで〕し村上氏、又佛敎統一論を公にしければ、本山に於ても是が處分は捨置〔すておく〕べからずと協議中、眞宗高倉大學寮學頭〔しんしゅう・たかくらだいがく・がくとう〕、講師吉谷學壽以下諸講師、學師三十七名連署して、村上の處置速決〔そっけつ〕を本山に迫り、各地方學師より續々其處置を本山に迫るに至り、猶〔な〕ほ各宗派に於ても大谷派の處置に關して注目する所あり、殊〔こと〕に本派本願寺に於ては、去月廿二日〔にじゅう・に〕より開會せる定期集會に於て、會衆の一人松島善海より奨來同派僧侶著書出版取締を設け出版者に本山の検閲を經〔へ〕へきとにせよとの建議さへ出でしも、大谷派は一方に財務整理の大事業中なり、頓成、空音,觀壽の如き本山限りの學師稱號を有するものなれば、首を切るも切らぬも、本山の自由なれども、何分村上氏は文學博士の稱號を有し、學士社會の大團體〔だい・だんたい〕之に屬しあれば、本山若し頓成同様の處分をせんか忽〔たち〕まち此等社會より非難の聲〔こえ〕囂々〔ごうごう〕として制するに力及ばず、村上氏一人の爲に本山は學界を合手の戰ひを開かざるべからざるに至るや必〔ひつ〕せり、此に於て耆宿〔きしゅく〕密會して議するありし結果、村上自分より僧籍を返還せしむるの一事こう一擧兩得の虎の巻なれとて、敎學録事大田祐慶士を遺〔つかわ〕して相談の幕を開き、新法主の説諭もありて無事に其の運びとなり、本山は左の如く指令して一段落を告げたり
  三河國寶飯郡御馬村
 入覺寺前住職 村上専精
 願いに依り僧籍を除く
 明治三十四年十月廿五日
 執綱權大僧正 大谷 勝 縁印
 (『政敎時報』67、明治34年、11月15日発行,pp.10-11,〔 〕内私の補足)


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