新チベット仏教史―自己流ー
その3
その点については、後で検討することにして、『チベットの死者の書』の内容をさらに見ていきましょう。川崎信定氏は、同書の大切な教え「中有」について、こう解説しています。
チベットにおいても、中有存在説に基づく法要や儀式はさかんに行われた。『チベットの死者の書』に見られる中有の記述のうちで、六道(ろくどう)〔地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天とExperience on the Brdo Paまれるもの、湿生=じめじめしたところから生まれるもの、化生=理由なく忽然と生まれるもの〕の誕生、化生(けしょう)の存在、同類の化生によってのみお互いの姿が見られるとの説、〔その〕すべてすでに『俱舎論(くしゃろん)』第十〈世間品(せけんぼん)〉の中有の存在の記述に存したものであって、これをタントラ的に色づけしたものということができる。また忿怒(ト)尊のみならず寂静(シ)尊までをすべて自分の意識が作りだす幻影であり、一切の本質は空(くう)であるとする『チベットの死者の書』の主張は『俱舎論』を超えて、『般若経(はんにゃきょう)』および『中論』の立場を我が物としており、さらには唯識(ゆいしき)の「習癖(ヴァーサナー)を作る力」や「意識(チッタ・)の流れ(サンターナ)」をも上手に使った叙述を行っている。・・・また行者の身体を宇宙的身体にみたてて、その相即(そうそく)相応(そうおう)と統御をはかるのはタントラのヨーガの基本である。・・・『チベットの死者の書』は以上のような仏教・密教・ヒンドゥ―教の複雑な思想と文化の交錯する網の上に乗って巧みに構成されたものである。(川崎信定『原典訳 チベットの死者の書』1989年、pp.204-206、ルビ私と著者,〔 ]内私)
中有というのは、あらゆる仏教諸派によって認められていたものではなく、説一切有部等が中心的に説いたもののようです。無我を標榜(ひょうぼう)する仏教において、死後の存在たる中有の存在をどのように考えるのか?色々、難しい問題があったようですが、ここでは深入りは止めておきます。