仏教余話

その13
ともあれ、オルコットもブラバツキーもインドに渡り、新天地を求めた。だが、そこも去って、次に目指したのはスリランカの仏教徒達である。以前から交流はあったが、オルコットとブラバツキーは、何と、スリランカで仏教徒になってしまうのである。オルコットは、スリランカで八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をし、1人の優秀な仏教徒に出会う。彼はダルマパーラという名前で、オルコットの来日の際も、同行した。ダルマパーラは、最初、神智学協会で神秘主義を学ぶつもりだったが、ブラバツキーの薦めで、パーリ語の教典を勉強し、スリランカ仏教やその国の独立を指導するような人物へと成長することになる。
さて、話をオルコット来日の使命を帯びた野口復堂に戻そう。彼は、スリランカも訪れた。驚いたことに、当時、すでに、日本人僧侶が何人か、スリランカで仏教を学んでいた。その内で重要な人物は釈興然という僧侶である。彼は、禅を世界に広めた鈴木大拙や『チベット旅行記』を書いた河口慧海にパーリ語を伝授したそうである。
インドでは、野口は大歓迎を受けた。そして、明治22年(1889年)2月9日、ついに、オルコットとダルマパーラを伴い、野口は凱旋帰国する。日本を立って5ヶ月が過ぎていた。オルコット達は、日本人僧侶に大いなる期待をもって迎えられた。『浄土教報』では、こう述べられている。
 吾人は今このオルコット氏の来朝を聞き欣躍(きんやく)の情に耐えざるのみならず先ず、我日本仏教徒が現十九世紀の世界に斯(か)かる有力なる新良友、新知己を得たるを祝せんと欲するなり(『浄土教報』1、佐藤哲朗『大アジア思想活劇』2008年、p.233より孫引き、ルビは私)
オルコットは、かくも期待をもって、歓迎されていた。京都の知恩院での公演には、数千人の聴衆が集まった。彼は「19世紀の菩薩」とまで呼ばれていたのである。オルコットは、上京しても同様な歓迎を受ける。その時の様子は以下の記述によって知られる。
 オ氏は我が東京に在ってはその滞在僅か二十日に過ぎざるも増上寺厚生館等各所の招請に応じ演説ありしは都合十回にして、いずれの場合に在っても聴衆満場立錐(りっすい)の地を余さず氏の誠実熱心護法愛国の年慮に厚きオ氏の雄弁とは大いなる感動を与えたり。(『浄土教報』4、佐藤哲朗『大アジア思想活劇』2008年、p.241より孫引き、ルビは私)
オルコットの日本での活動の続きを見ていこう。彼は、日本仏教の飲酒の習慣には苦言を呈する。この苦言がまた影響を与える。キリスト教に対抗して、仏教復興運動をリードし、「禁酒」を推進していた西本願寺の僧侶達を後押しすることになったからである。彼らは、『反省会雑誌』を発刊し、禁酒のみならず、仏教的立場からの時事評論などを展開した。後にこれは『中央公論』という総合雑誌に成長する。
 一方、オルコットに同行したダルマパーラは、体調を崩し、入院していた。しかし、彼は、多くの日本人と会い、多大な影響を受け、また、祖国スリランカとその仏教への想いを日本人にも強く印象付けた。

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