新インド仏教史ー自己流ー

その4

櫻部建氏は、現代の説一切有部研究のリーダー的存在であった人ですが、山田氏よりさらに強い立場を取って、こう断言します。
 この「六足・発智」という考え方は、特に、有部論書を成立史的に見ようとする場合、余り意味をもたぬものである。(櫻部建『倶舎論の研究 【界・根品】』2011 rep.of 1969,p.44)
櫻部氏が、こう断言するのは、それなりの理由があります。「六足発智」は、中国や日本の説一切有部研究に占める地位は極めて高かったからです。1人の学者の見解を見ていくと、それがよくわかります。その学者の名は、渡辺媒(わたなべばい)雄(ゆう)と言います。彼は、駒澤大学で教鞭(きょうべん)をとっていました。今は禅で有名ですが、昔の駒沢大学には、伝統的な説一切有部研究を行う人も随分いたのです。
 わが國佛敎學界(くにぶっきょうがっかい)における六足・發智七論觀(かん)や、全然(ぜんぜん)一變(いっぺん)してしまつた概(がい)あるいは不思議とするにもあたらない事(じ)實(じつ)で、かくして、わが國即今(そっこん)の佛敎學界における六足・發智七論觀といえば、まずつぎのごときがほとんどその支配的なものであるといつても多く支障はないであろうことを考えると、ひるがえつて上掲(じょうけい)の〔『阿毘達磨倶舎論指(あびたつまくしゃろんし)要抄(ようしょう)』を著した江戸時代の僧〕湛(たん)慧(ね)〔1676-1747〕 以前の三國佛敎(さんごくぶっきょう)史上(しじょう)におけるそれを思いくらべ、まこと變(へん)革(かく)のいちじるしいのに眼を見はらされるばかりならざるをえないものであろう。すなわち、〔望月(もちづき)信(しん)享(てい)編『佛敎大辭典』「説一切有部」の項にあるように〕蓋(けだ)し迦栴(かた)延尼子(えにし)は當(とう)部(ぶ)(=有部のこと)の祖師(そし)にして、阿毘達磨發智論を造り、八犍度(はっけんど)を立てゝ諸法の性相(しょうそう)を判ず。・・・・・尋(つ)いで五百(ごひゃく)羅漢(らかん)あり。大毘婆沙論(だいびばしゃろん)二百巻を制して具(つぶさ)に阿毘達磨発智論の文(もん)義(ぎ)を釋(しゃく)し、茲(ここ)に當部の敎義は大成せらるヽに至れり。すなわち、つづめてこれをいえば、有部における、なかんづく敎義に關(かん)するかぎりは、もつぱら大毘婆沙論によつて大成されたもので、右掲(うけい)の文中には、ただ發智一論をもつて代表させているというべき要するに全六足・發智七論のごときは、いうならば、そういう大毘婆沙論に對(たい)する單(たん)なる緒論的(ちょろんてき)な諸存在にもすぎなかつたように見るのが、まさしくわが國最近代學界としての同六足・発智七論觀にも他ならないのである。これをいま一ど湛慧以前における三國佛敎史通(つう)貫(かん)のそれに反省かつ照合するところあれ。何としても瞠目(どうもく)せしめらるのみの變化(へんか)と称される。稱(しょう)するほかもないものでなければなるまい。…有部における最根本特殊所依(さいこんぽんとくしゅしょえ)聖典群(せいてんぐん)こそ、すでにくりかえして縲(るい)述(じゅつ)してきた六足・發智七論に他ならないことを究明し、さしあたつてはこれを湛慧以前の印度(いんど)・シナ・日本にわたる三國佛敎史通貫の、いいうるならば、規定の事實に復還(ふくかん)しつつ、要するに問題を最終的に決定しうるとともに、擴充(かくじゅう)してはまた有部の一分派佛敎としての大成問題までも少なくも一ととおりはさだめうるところありたいというのがとりもなおさず當面一篇(とうめんいっぺん)の研究、すなわち「有部の最根本特殊聖典としての六足・發智七論」ある所以に他ならないのである。(渡辺楳雄『有部阿毘達磨論の研究』昭和29年、pp.39-41、ルビ・〔 〕内私)
櫻部氏、そして山田氏は上のような渡辺説を批判したのです。説一切有部教学における「六足発智」の位置付けは、つまるところ『発智論』そしてその注釈書『大毘婆沙論』と各論との軽重(けいちょう)をどのように考えのるか、という点にあるという点ではどの研究者も異論がないと思われますが、ここに『俱舎論』を加えると微妙に力点が変わってくるようです。また、サンスクリット語・チベット語を基本とする近代的研究方法と、漢訳に依存する昔の研究方法の違いも影響しているのかもしれません。ついでながら、渡辺媒雄の別な面も紹介しておきましょう。大分以前に、ローゼンベルグに言及した際、彼の書いた「倶舎論研究に附して日本學界に望む」もに触れました。これには、渡邊楳雄のまえがきがあります。2人は知り合いだったのです。まえがきには、こうあります。
 ローゼンベルグ氏がペテログラード大學(だいがく)から派遣(はけん)せられて我(わが)東大大學院(とうだいだいがくいん)に來り漢譯佛敎(かんやくぶつきょう)の研究に從(したが)つてゐたのは恰(あたか)も予(よ)等の學生(がくせい)時代(じだい)で有つた。その後、氏は戰爭勃發(せんそうぼつはつ)時(じ)に歸(かえ)つて行つた。私は今でも氏の若々しい而も(しかも)學者(がくしゃ)らしい風姿(ふうし)をあり〱と想(おも)ひ浮(うか)べることが出來る。此(こ)の稿は氏が日本を去るに臨(のぞ)んで、在留中(ざいりゅうちゅう)の研究を纏(まと)め一(いち)小冊子(しょうさっし)に作つて、我が大小の學者に送り、その意見を徴(ちょう)せんとしたもので、私は之(これ)を畏友(いゆう)文學士(ぶんがくし)池田(いけだ)澄(ちょう)達(たつ)氏から見せて戴(いただ)いた。横風(おうふう)な口をきくようだけれども、私は研究そのものに至(いた)つては必ずしも特に推賞を價(あたい)する何者をも見出さないけれども、外人にして漢文を渉獵(しょうりょう)し此の稿を成したその心術(しんじゅつ)に至つては正に私の最も歎(たん)じた所で有る許(ばか)りでなく、之の序論の中に述べている所は正しく外人一般の我一般佛敎學界に對(たい)する要望を代表するものと見て差(さし)閊(つか)えないと思つたし、殊(こと)に著者自身が批評その他我學人(がまがくじん)の意見を聞きたいと言つてゐるのだから、機を得て一般に公表したらと考へ、私(ひそ)かに池田君に許(ゆるし)を乞(こ)ふたら、それこそロ氏の本懐(ほんかい)で有ろうといつて氏も之に賛成して下されたので、本誌を假(か)りて此に江湖(こうこ)の一讀(いちどく)を願つた譯(わけ)で有る。思ふに今時露國(こんじろこく)の大勢は容易に明日を計り難い有様なのだから、ロ氏の大なる研究も今は恐らく殆(ほとん)どその用をなさぬことで有ろう。姉崎敎授(あねざきょうじゅ)は佛國(ふこく)から歸朝(きちょう)された當(とう)時(じ)或(あるい)は餓え死んだかもわからないといつて、此の氣(き)の毒(どく)な學(がく)究の身の上を案じてゐられたが、それ程(ほど)の不幸は幸いに無からんことを祈るとしても、何(いず)れにしても不遇(ふぐう)に違ひない學人(がくにん)の我國に遊んだことを記念するためとしても、此の稿を本誌に依(より)て公表することは宛(あなが)ち徒爾(とじ)では有るまい。諸君子(しょくんし)幸いにロ氏の心を想ひ、所有機會(あらゆるきかい)に於(お)いて氏の要求する所の意見を述べて下さるならば私の婆(ば)心(しん)の至福(しふく)とする処(ところ)であるが増して我學界炯(けい)眼(がん)の士(し)多しとは言え、又數々(またかずかず)老婆(ろうば)信仰(しんこう)に障(さ)えられて眞實佛敎(しんじつぶっきょう)の學(がく)術的(じゅつてき)闡明(せんめい)を怠(おこた)るものも無いではないから、かゝる人々に對して幾分でも眼を世界に開き、心を眞(しん)理(り)の愛好に趣(おもむ)かしむる資(し)助(じょ)を供するものが有れば、私の幸いの之に過ぎるものはない。敢(あ)えて此の稿を江湖に薦(すす)める。-大正九、四、二八―渡邊楳雄誌(『宗敎研究』第三年 第二十號、1920(大正9年)、pp.80-81,ルビ私)
現代では、その言が、金科玉条(きんかぎょくじょう)のように扱われている、櫻部氏の意見にも、再考すべき余地があるということを示すために、あえて引用してみました。渡辺氏は戦中・戦後にかけて、政府の宗教行政に深く関わっています。その面については、大澤広嗣「日本軍政下のマラヤにおける宗教調査―渡辺楳雄についてー」『アジア文化研究所研究年報』42,2007,pp.19-36、―同―「戦後初期の渡辺楳雄―宗教行政と宗教界との関わりからー」『國學院大學 日本文化研究所紀要』100,2008,pp.111-140があります。興味のある方は、ご一読願います。さて、経量部の序論として、色々、説明してきました。少し、横道に逸れましたが、前提知識の1つとして、頭に入れておいてください。


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