新インド仏教史ー自己流ー

その5
これに関して、有名なインド学者、服部(はっとり)正明(まさあき)氏は、こう述べています。
 神秘思想の根底には神秘(しんぴ)体験(たいけん)―絶対者(ぜったいしゃ)と自己との合一(ごういつ)の体験があることはいうまでもない。その体験が神秘主義の核心(かくしん)であるが、それが反省的に思考されるときに神秘思想が形成される。神秘主義という語から、当節流行のオカルティズムを期待されることのないように、初期ウパニッシャドの神秘主義をここに素描(そびょう)しておくこととしたい。神秘主義は「神、最高実在、あるいは宇宙の究極根拠などとして考えられる絶対者を、その絶対性のままに自己の内面で直接に体験しようとする立場、そしてその体験によって自己が真実の自己となるとする立場」(小口・堀監修『宗教学辞典』)と定義づけられている。それは神を自己を超えた他者と表象し、神に帰依(きえ)し、神の恩寵(おんちょう)・救済(きゅうさい)にあずかろうとする立場とは本質的に異なっている。他者として表象される人格神に対する信仰は、後代に普及するヒンドゥー教において顕著になるが、初期のウパニッシャドには、神への誠(せい)信(しん)、神の恩寵の観念は未だあらわれず、アートマンとブラフマンの合一の思想がその核心をなしている。(服部正明『古代インドの神秘思想 初期ウパニッシャドの世界』昭和54年、pp.35-36、ルビ私)
服部氏の説明はわかりにくいものです。後代には、神への帰依に変わっていくのだから、オカルティズムとは一線(いっせん)を画(かく)すと言っています。しかし、それは事の本質を伝えていません。
今まで見てきたように、ヴェーダ、ウパニシャッドにあるのは、呪術的思考です。これをオカルティズム、オカルト的思考と見なすのは、間違っていません。インド的思考の極致は、梵我一如で、それは呪術的思考の極致でもあるのです。少々、歴史を先取りして言えば、仏教では「無我(むが)」を説きます。もしそれが、梵我一如の我を否定する意味を荷なっていたならば、仏教は呪術的思考を否定したとも考えられます。「無我」は大問題なので、また触れますが、インド思想を巨視的に見れば、そのような見方も可能であると覚えておいて下さい。
 

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