仏教余話

その126
さて、また少し寄り道になって恐縮だが、時代の肉声を聞くという意味で、中村元博士の師のあたる宇井伯寿博士の回顧談も合わせて、紹介しておこう。
 「印度哲学」といふ名がどうして起つたかといふことについて話してみようと思ひます。「印度哲学」という名が起つたのは実は、私の知る限りでは、殆ど偶然なことからであります。東京帝国大学がまだ単に帝国大学と呼ばれて居た時代、明治二十年頃でせうか、即ち京都にはまだ帝大がなかった頃のことでありますが、その時期の帝国大学総理―当時は総長ではなく総理と言ひましたがーその総理に加藤弘之といふ人が居ました。この人は当時学界第一流の法律と哲学の学者でありまして、法学博士と文学博士との二つの学位をもつて居られましたたし、進化論をはじめて西洋から日本に取入れた人です。…この人が明治二十年の頃、「仏教の方にも哲学があるといふことだから、それを大学で講義しよう」と言ひ出して人を探したのですが、その時曹洞宗に原担山といふ人が居まして、其人がよかろうといふことになったのださうです。…加藤総理はこの人に講義してもらはうと思つて、頼みに行かうとしたのですが、さて何処に居るのか分からない。一日中人力車に乗つて捜し回つてやつとのことで探し出して講義をしてもらふことにはなりました。併し、「仏教哲学」という名前を使つたのでは、当時は基督教との関係上困るといふことになりましたので、そこで仏教は印度の哲学であるからといふので、遂に「印度哲学」といふ名が発明されたわけであります。従つて当時は「印度哲学」とういふ名は実に仏教哲学を意味して居り、後にこれが講座の名ともなつたわけであります。はじめ原氏は宋の契崇が仏儒調和のために書いた輔教編という本を教科書として講義しましたが、当時に学生にはあまり容易すぎるといふので、本をかへて大乗起信論を読んだりして居ました。このことは当時其講義を聴いた人から私が聞いたことで、後に有名になつた諸先生方の講義に列せられたさうです。…原氏にひきつづいて本派本願寺の吉谷覚寿氏が講義をなし、次には大谷派の村上専精氏が講義をしましたが、この人の講義は二十数年間つづきました。つまり、原、吉谷、村上と三代の間は、「印度哲学」の名の下に実質的には仏教をやつて居たのでありますが、私が明治三十九年に入学した時に、はじめて「印度哲学史」といふ講義が出来、印度一般の仏教以外の哲学、所謂外道哲学までもする様になつたのであります。又、同年はじめて京都文化大学が出来、ここでも印度哲学が哲学第四講座として開設されました。…京都では、仏教以外の印度一般の哲学を「印度哲学」の名の下に講義し、仏教は却つて入らなかつた様であります。これに対し東京では、ヴェーダ、ウパニッシャドの古代から講義をはじめ、時代を追つて次第に仏教にも及ぶという歴史的方法によつて居ました。従つて東京出身者が印度哲学の講義をする時には仏教も当然その中に入るわけであります。…大正十二年、関東大震災のあつた年に、東北大学が法文学部をつくることになりましたが、その中に印度哲学を入れるといふので私が仙台に赴任しました。はじめは印度哲学は哲学第四講座ぐらゐに入れようと考へて居たやうでありましたが、西洋哲学の人達が「印度哲学の様なのもは哲学の中に入れるべきではない」と言つて反対したので、こちらも「それでも是非・・・」と言つて、頭を下げてまで、仲間に入れてもらふのもいやだし、結局「印度学」といふのを講座の名前にして西洋哲学とは別に講座となして印度哲学を講義することにしました。これが日本で「印度学」といふ名を用ひたはじめであります。併し、この「印度学」に相当する西洋語のIndologieは当時としては、世界一般の傾向からいうても印度哲学とうふ意味には用ひられず、寧ろ印度や中央亜細亜の言語学的、考古学的研究を意味して居ましたので、先生方の中には「それでは講座の名前と講義の内容が違ふではないか」といつてあやぶむ人もありました。併し「マアマアそうやかましくいはずに一つ独自の考方で行かう」といふことで、結局「印度学」といふのを講座の名前にしたわけであります。つまりそれほど印度哲学といふものは、当時一般に哲学をやつて居る人々の間では認められても居らず、又、問題にもされて居なかつたわけであります。(宇井伯寿「特別講演「印度哲学」命名の由来」『インド哲学から仏教へ』1976所収,pp.499-502)
インド哲学創成期の当事者の肉声である。少々、寄り道をし過ぎたようであるが、あまりお目にかかれない記述だと思い、あえて、長く引用してみた。


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