仏教余話

その223
眼にする機会も少ないと思うので、些か、件のテーマに触れてみよう。まず、体・用の意味は、平井俊榮博士によれば、
「体用」とは本体と作用のことで、一般的には、中国宋代の儒者たちによってさかんに用いられた哲学用語である(平井俊榮「中国仏教と体用思想」、理想2 仏教の思想、1979,No.549,p.60)
ということである。体・用の趣旨は理解できる。体とは、本質、用とは現象・作用の意味である。事は、法=ダルマとは何か?という大問題に絡んでくるので、ここで詳しく論ずることは憚られるが、要するに『倶舎論』のダルマをどう解釈するのか、という点で、2つの立場があって、それを「体・用」論争というのである。即ち、ダルマの体=本質も生滅するとする「体滅家」、そして、ダルマの現象・作用のみが生滅するが、ダルマの本質は生滅しないとする「用滅家」の2つが論争を重ねたのである。この論争に終止符を打ったと目される書物に『倶舎論名所雑記』がある。何とも珍妙な題名である。この書をものしたのは、一代の名学僧、佐伯旭雅である。佐伯旭雅の『冠導阿毘達磨倶舎論』は、現在、猶、漢訳の底本として使用されるような極めて、学術的価値の高い本である。例えば、現在の『倶舎論』研究者の中で、最も、大きな業績を残している櫻部建博士は、こう述べている。
 『冠導阿毘達磨倶舎論』は、江戸時代までの“倶舎学”の成果を集大成してそれを頭註および傍注として倶舎論本文に加えた述作で、今もそれから学び得る所は多大であるから、倶舎論学習を志す者にとって必見の書である。(櫻部建「新たに説一切有部研究を志す人のために」『仏教学セミナー』61,1995,p.46)
これに反し「体・用」論争に、貢献した『倶舎論名所雑記』は、忘れられている。

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