「倶舎論」をめぐって
LII
実は、私は、少し、別な意見を持っている。毘婆沙師とは『大毘婆沙論』という書物に依存した集団ではないのではないだろうか?と思っているのである。『梵和大辞典』によれば、毘婆沙の原語vibhasaは、「広説」「種種説」と漢訳されている。紐解けば、直ぐにも了解出来ようが、異説の集成、即ち、広説、種種説は、『大毘婆沙論』そのものの著述スタイルである。毘婆沙が同書を直接指すという確証はないが、毘婆沙の著述形式という意味合いは伺える。つまり、反対意見を排除するのではなく、すべての意見を集約する、というスタイルが、毘婆沙にはあるのである。そういうスタイルを堅持する者を毘婆沙師と呼ぶとすれば、何も、『大毘婆沙論』だけを目安にして、名の由来を云々する必要もないだろう。『大毘婆沙論』的著述スタイルに対する反動は、結局、『倶舎論』を生む原動力となるのだが、その辺りの経緯を、明治・大正を代表する学者木村泰賢博士は、こう綴っている。
大毘婆沙論は迦濕彌羅派有部の標準的聖典ではあるけれども、他面からすれば、また有部宗全体に関する百科全書のごときものである。したがってこれを統一ある教科書として見れば、不便極まりなきもので、その複雑紛糾の体裁は、少なくも初学者の手には始末に負えないものがある。けだし、元来、発智論自身が余りに組織の正しいものではないと来ているところに、これを中心として無数の異説やら、他書の説やらを附加して、いわゆる広説したものであるから、勢い複雑、無秩序とならざるを得ないのである。ここを以ってか更にこの大毘婆沙論を簡略にした、いわば抄毘婆沙を作って、その大要を明らかにするということは大毘婆沙論編纂以後における有部教徒の一大事業であらねばならなかった。(木村泰賢「倶舎論述作の参考書について」『木村泰賢全集 第四巻 阿毘達磨論の研究』昭和43年所収、p.213)
このような趨勢の到達点が、『倶舎論』なのである。そこに至る歴史的推移も、木村博士はスケッチしている。こう述べている。
倶舎論には、やはり、これを述作するために、その背景となった立派な参考書、いい得るならば種本があったもので、決して伝説のごとく簡単に出来上がったものではないことが分かって来たのである。しからば、その種本というのは何であったかというに、要するに法救の雑阿毘曇心論(Samyuktabhidharma hrdaya sastra)であったということが出来る。或る意味からすれば、倶舎論はこの雑阿毘曇心論を訂正し増補して、それに一流の経部的意見を加えたものに外ならぬということが明らかに証明し得られたことになったのである。しかも、この雑阿毘曇心論は、それ以前の阿毘曇心論経に基づき、阿毘曇心論経は、更に法勝の阿毘曇心論に基づいて成立したものであるから、所詮、倶舎論が述作せられるための背景的参考書となったものは、これを歴史的に観察すれば、吾人は先に倶舎論型に属する綱要書といったもの全部…となるわけである。(木村泰賢「倶舎論述作の参考書について」『木村泰賢全集 第四巻 阿毘達磨論の研究』昭和43年所収、p.220)