「倶舎論」をめぐって
LXXXVII
さて、櫻部博士は、『倶舎論』を代表とするかなり理屈っぽい傾向について、やや自嘲めいた論述も展開していた。最初の方で紹介した。憶えている方もいるだろうが、もう1度、示しておこう。
アビダルマといい、『倶舎論』といえば、しばしばそれは仏教の煩瑣哲学だと評される。たしかに煩瑣で複雑な教義学がそこには盛られている。かつて諸宗の学林で『倶舎論』を学習した若い僧たちは、戯れにそれを「一部始終ガムツカシイ、三度四度マデ聞イテモミヤレ、ソレデ解セズバヤメシャンセ」と歌った(佐伯旭雅の『倶舎論名所雑記』にみえる)。クシャクシャとこむずかしい議論が続出するから「くしゃ論」というのだという冗談もよく聞かれるところである。(桜部建・上山春平『仏教の思想2存在の分析〈アビダルマ〉』昭和44年、p.14)
これは、『倶舎論』などのような論書の在り方を巡るかなり重要な発言である。仏教の精髄をどう理解するか?という根本的な問いにもつながる。この辺の消息についても、櫻部博士は、近代の研究者達の見解に触れ、こう述べている。
〔ヨーロッパの著名な学者〕プサンのように、初期の仏教が後期の「スコラ」仏教と相対立するかのように考えることは、アビダルマ仏教が、何か本質的に原初の仏教と異なっていた、とすることであるが、事実はそうではない。仏陀は決して形而上学的思弁に無縁の徒であったのではなく、その教義は看過すべからざる哲学的構造を有している。「思想的に確乎たる立場を占めることなしに、如何にして仏教は先行のインド哲学中から生じ得たのであろうか。」ローゼンベルグはまた、仏教を理解するには理論的・教義学的理解を先ず第一にせねばならず、平俗的・大衆的・実動的仏教の理解は、理論的仏教の理解を前提とすることによってのみ可能である、として、プサンの見解と対立する(Die Probleme,Kap.III)。…要約していえば、阿含〔=古くからの経典〕は、原初の仏教の教義的伝承であり、そのアビダルマ的集成である。だからそれは本来「アビダルマ的傾向」にあるものであり、やがて必然的にアビダルマ論書の成立・発展に連なって行くのである。(櫻部健『倶舎論の研究 界・根品』2011年、新装版、pp.31-32,〔 〕内私の補足)