「倶舎論」をめぐって

LXXXVI
この点について、櫻部博士は、以下のように論じる。
 『大毘婆沙論』巻一に見える名義釈はすこぶる網羅的なもので、およそabhidharmaの語について可能と思われる解釈二十数種を枚挙しており…そこでは、全体としては、むしろ「法に関する」「法に対する」という理解の方が先立っていると認められる。そして、それを受けて、『倶舎論』に至ると、abhidharmaの語の接頭辞abhiを、abhimukha(「対向」「対観」)の義であるとする解する釈ただ一を採って、他の釈義はすべて棄てているから、有部の名義釈はここにおいて、上に述べたabhidharmaの原語義に帰っているように見える。(櫻部健『倶舎論の研究 界・根品』2011年、新装版、p.22)
ここに示された『倶舎論』のアビダルマ解釈は、語源的にも理に適ったものなのであろう。私も、それに同意する。最初に『倶舎論』Abhidharma-kosaを「ダルマに関する辞典」と訳してみたが、櫻部博士の所論を参考にしても、大過ないように思う。問題は、「ダルマ」の意味である。甚だ、難しい問題なので、ここでは触れない。今は、櫻部博士の「アビダルマ」についての結論を引用し、このテーマを終わりとしたい。
 初期教団における「法についての談論(abhidharmakatha)〔アビダルマ・カター〕」とのちの「アビダルマ論書(abhidharmasastra)〔アビダルマ・シャーストラ〕」との間には、やはり直接の関係を認むべきである。すなわちabhidharmakathaが次第に発達しついにabhidharmasastraとしての形態をとるに至ったと考えるべきである。その間に、教法の研究は、分析と総合との両面において、いちじるしく進展したが、その進展の間において、教法の要目をmatrika〔マートリカー〕として纏める仕方は、散説された状態にある教説を統一的・組織的に把握する総合的研究の最も有力な方法であった。それはアビダルマ的方法の代表と見做され、時に直前に挙げた例のように、アビダルマの同義語として理解されることさえあったのである。(櫻部健『倶舎論の研究 界・根品』2011年、新装版、pp.28-29,〔 〕内私の補足)
少し補足しておこう。アビダルマといえば、今日では、仏教の論書と同じような意味合いを持つ。経・律・論に分類される三蔵の論蔵に当たる。その出現は、経・律に比べると、遅い。理屈っぽいだけの難解なものに見える「論蔵」=アビダルマも、その発端は、ダルマ=釈迦の教えに関する、僧達の議論からとするのが、櫻部博士の主張なのである。これは、木村泰賢博士の見解を支持したものである。一方、アビダルマの始まりをmatrika(マートリカー)に見ようとしたのが、著名な西洋の学者ガイガーである。マートリカーには、「母」「起源」という意味がある。これについて、荻原雲来博士は、こう述べている。
 摩底迦〔matrika,マートリカー〕は根本的略標なれども、其の根本たるや、研究せられるべきもの即ち諸法の体相を無倒に研尋する基礎、基準の義なり。諸法の体相を研究することは諸法を分別(vibhajati)することなり。婆沙論第二十八(正蔵二七、一四五丙)等に世尊所説の頌なるものを出して曰く、「獣帰林藪、鳥帰虚空、聖帰涅槃、法帰分別、」と、以て法は分別せらるるが本来なりと知るべし。是の如く分別するものは即ち阿毘曇(abhidhamma)にして、摩底迦は阿毘曇の指導原理、中心思想と云ふべし。已に分別することに立脚し哲学的に研究する事項の要目を言ひ現はすとせば勢ひ法相名目とならざるを得ず。(荻原雲来「摩底迦」昭和7年、『荻原雲来文集』昭和47年所収、p.871、〔 〕内私の補足)
荻原博士もはっきり「摩底迦は阿毘曇(=アビダルマ)の指導原理、中心思想と云ふべし」という。アビダルマの発端をマートリカーに求めても不思議はないのである。アビダルマについては、議論百出で、多くの研究がある。最近のものを列挙しておくと、立川武蔵「『倶舎論』における「アビダルマ」の意味について」『印度学仏教学研究』54-2,2006,齋藤滋「説一切有部における「アビダルマ」」『印度学仏教学研究』57-1,2008,pp.256-259,
飯岡祐保「有部(『倶舎論』)におけるアビダルマの定義」『印度学仏教学研究』58-2,2010,pp.956-952などがある。これらの論文から、芋づる式に過去の研究を辿ると、アビダルマの研究史ということになろう。
 


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