仏教余話
その144
また、勝呂信静博士は、同書の意義を、こう述べる。
『摂大乗論』とは、大乗の綱要(samgraha摂)というような意味である。この内容は、大乗仏教のすぐれた特徴を十項目に分けてあげ、それぞれの項目について教義的説明を施したものであるが、このような形式によって広く大乗仏教の教義を統一しようとしたことは、他面では、弥勒の諸論の教義を統一するという性格をもつに至った。しかしながら、膨大で多様な弥勒の教義をひとつの論において統一することは事実上不可能であるが、ここで統一の原理となったのは唯識説であった。『摂大乗論』には、唯識説が中心
的な理論として各所に説かれているが、それは本書が唯識によって弥勒の教義を統一しようとする意図を示したものであるということができる。(勝呂信静「唯識説の体系の成立―とくに『摂大乗論』を中心にして」『講座・大乗仏教8 唯識思想』昭和57年所収、pp.80-81)
兵藤一夫博士は、次のように、述べている。
『摂大乗論』は無着の主著とされるもので、これによって唯識思想を基盤としてアーラヤ識説と三性説が統合体系化され瑜伽行唯識思想が確立した画期的なものである。本論書には全体にわたる仏訳と和訳がある。(兵藤一夫『初期唯識思想の研究ー唯識無境と三性説―』、2010,p.16)
兵藤博士のいう和訳に当たるのが、長尾雅人『インド古典叢書 摂大乗論 和訳と注解』上・下1982である。これは、各種の漢訳、チベット語訳、注釈等を網羅的に参照している。長尾博士は和訳について、こう述べている。
本和訳はチベット訳を中心にし、諸種の漢訳を参考しながら、それらを総合的に訳出したものである。(長尾雅人『インド古典叢書 摂大乗論 和訳と注解』上1982,p.58)
三島は、「唯識説はもと、大乗アビダルマ経に発し、のちに述べるように、アビダルマ経の一つの偈(げ)は唯識説のもつとも重要な核をなすものであるが、無着はこれらをその主著「摂大乗論」で体系化したのである。因みにアビダルマは、経・律・論の三蔵のうち、「論」を意味する梵語であるから、大乗アビダルマ経とは、大乗論経といふに等しい。」と述べる。