仏教余話

その104
このような伝説のベールを剥ぐような研究の先駆けとなったのは、先にも名前の出た宇井伯寿博士の「史的人物としての彌勒及び無着の著述」(『哲学雑誌』1921)である。宇井博士は、そのような考察を行った経緯を後に、こう記している。
 到来仏の著者たることを認めないとすれば、著者は何人か。伝説は凡て一致して、彌勒菩薩と無着論師とのみが、論の出現に関して、言われて居て、異説は無い。然し、伝説を全く離れて、著者は不明であるとなすのも一の考方であろうが、然し、又、伝説を全く離れては何ごとも判らないことになろうし、而も一致する伝説凡てを捨てては、自己の主張すら立てられなくなるであろうから、それは予期しない自殺的行為でもあろうか。従つて、伝説上、無着論師が著者であるとせられることにもなろうこと、チベット伝の如くであろうが、無着論師は自著の中に、彌勒菩薩から瑜伽論を聞いたと書いて居るし、又指名引用しても居るから、著者としては彌勒菩薩のみが考えられることになる。ここに於いてか、無着論師のいふ彌勒菩薩と、到来仏としての彌勒菩薩とは、名を一にしながらも、全く別の菩薩であると見る外には、見方はない如くである。一般に優れた論師は菩薩と尊称せられるのが古今の慣例であるから、無着論師のいふ彌勒菩薩は即ち彌勒論師である、となすのは、蓋し必然の帰結であろう。この帰結に従つて、今ここでは、彌勒という論師が著者であると見るのである。彌勒論師の実在説は、学界に於いて、一般には認められて居ないといはれるが、自分はそれと論諍しようなどとは毛頭考へて居ないし、異見のあるのは、それは止むを得ないと考へる。然し自分としては、以上の考で研究上の満足を得て居るのであり、認めてもらいたいなどと考へたことは全く無い。問題は全く学的の反省考察の範囲のもので、沽券などに係はるものではないと思ふ。自分は到来仏たる彌勒菩薩を信じて居るから、菩薩の威徳を冒すが如きことは慎んで居るし、著書中にある欠点過誤などをば、菩薩には帰せしめ得ない。彌勒論師に対しては、衷心から尊敬するので、其多数の著述についても多少の研究を企てたのである。自分は一仏教徒である。仏教の御蔭で生活して来たし、又生活して居るが、然し仏教専門の学徒であるなどとは考へて居ないし、又しかならんと願うたこともなく、すべてインド哲学史の研究の為のみに努力するのであって、研究上では、古徳をも批評し非難する罪深い態度も取る。それ等の為ばかりでもなからうが、従来、ともすれば外道と呼ばれたやうである。自分は之を甘受するし、研究上では自らも外道たるを脱して居ないと思うて居る。外道であれば批評非難の罪は、多少は、忽諸に附せられようかといふ、恐らく不当ながらの、期願を有するからである。伏して諸聖の照鑑を仰ぐ。(宇井伯寿『瑜伽論研究』昭和33年、pp.1-3)
宇井博士の物言いは、学者としての自負に溢れているようにも見えるし、世間からの、轟々たる非難を巧みにかわしてしるようにも見える。ともあれ、伝説への切り込みは、宇井博士に始まるのである。


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