「倶舎論」をめぐって
LXIII
少々、『俱舎論』には蛇足になるが、世親の別著『五蘊論』のサンスクリット原典とスティラマティの『五蘊論注』にも触れておきたい。両作品とも近年、原典が発見され出版された。まず、世親『五蘊論』の序文から見てみよう。こうある。
世親の『五蘊論』のオリジナルサンスクリットテキストは、この度、始めてここに刊行された。ラサのポタラ宮殿の蔵書に保管されたユニークな冊子にあったものである。今回は、冊子に直接触れることは叶わなかったが、我が公刊物は北京にある「中国チベット学研究センター」の図書館によりなされた写真版に基づいている。世親の『五蘊論』は、大雑把には、無着の『阿毘達磨集論』第1章で示されたものと同じように、瑜伽行唯識に沿ったアビダルマの要約である。・・・その題名が示す通り、焦点は、蘊、「グループ」または「支体」である。有情、非情世界の世俗的人格の基本要素のことである。アビダルマ哲学がどのように提示されているのかというあり方についていえば、瑜伽行派の要素のため、〔本書は、その瑜伽行派の要素を〕持っている。『五蘊論』は世親の最後期の『三十頌』と関連がある。それは純然たる瑜伽行唯識派の作品なのである。同時に、伝統的アビダルマの術語に関しては、『俱舎論』や自註と密接に関連する。〔『倶舎論』では〕説一切有部哲学を提示し、経量部の概念とは一線を画するのである。こういう例がある。『五蘊論』で示される術語は、『倶舎論』に見出される、しかしスタンダードな説一切有部からは違ったものとして紹介され、「他の人」「別の人」に帰されるのである。この種の定義は、伝統的に「経量部」と見なされる。しかしながら、ロバート・クリッツァーは、そのうちの幾つかは、瑜伽行アビダルマの偽装と捉える方がよいと考えている。(Vasubandhu’s Pancaskandhaka,ed.by Li Xuezhu and E Steinkellner with contribution Toru Tomabechi,2008,Vienna,pp.vii-ix,私訳)
このような『五蘊論』に対し、スティラマティは注を著し、それの原文も出版された。ここで、その序文も見ておきたい。適宜、抜粋する。
仏教哲学の中心概念の1つとして、五蘊の理論は、よく研究されてきた概念だろう。しかし、『五蘊論』(注)の検討から、五蘊の概念は初期の文献とは変わったことが明確になった。瑜伽行派のアビダルマに編入された時のことである。伝統説は、アーラヤ識、マナ識のような新説に沿った線に持ってこなければならなかった。『五蘊論』(注)では、この蘊説の作り替えの過程が、取り分け、目につくのである。・・・『五蘊論』を草して、世親は、瑜伽行派の観点から理解される五蘊に関する簡便なマニュアルを作った。・・・世親作の短さに反し、スティラマティは、元作品の10倍もの長大な注釈をなしたのである。(Sthiramati’s Pancaskandhakavibhasa,ed.by J Kramer,pt.1,2013,Vienna,pp.ix-xx,私訳)