新インド仏教史―自己流ー
その4
ここで、昭和の初期に、同じような感想を抱いた学者の言葉を引用しておきましょう。
それは兎に角(とにかく)、ここに〔説一切〕有部に就(つ)いて最も考慮(こうりょ)を払うべきは、有部の三世(さんぜ)実(じつ)有(う)の教義は、古来多くの学者が、近視(きんし)眼的(がんてき)に教界(きょうかい)趨勢(すうせい)の帰結たる大乗経成立のそれに幻惑(げんわく)せられ、有部の所説はただ一口に浅薄(せんぱく)のものとのみ心得(こころえ)、忠実にこの三世実有説を深察(しんさつ)せぬ怨(うら)みがあることである。(佐伯良謙「有部の三世実有、法体恒有説と體滅用滅伝に就いて」『大正大学学報』8,昭和5年、p.85、ルビ・〔 〕内私の補足)
もう1つ、説一切有部を蔑視(べっし)していた理由を示しておきましょう。この部派は、極めて実在論的傾向が強いとされてきました。「空」という時、一切の実在を否定するのが、仏教と見なされるます。説一切有部が、実在論者ならば、そのような評価は命取りになりかねません。昔、次に示すような議論がありました。
〔古来から続く〕体滅用滅(たいめつようめつ)〔法=ダルマの本体が滅するのか、作用が滅するのか〕の論争に於いては、前者は「一切(いっさい)行(ぎょう)無常(むじょう)」の立場に拠るもの、後者は有部系の徴表(ちょうひょう)たる「法体(ほったい)恒(ごう)有(う)」の立場に拠るものと考えることが出来る。しかながら「一切行無常」という事と「法体恒有」と云う事は果たしてしかく矛盾するものであろうか。或いは又、一見まことに氷炭(ひょうたん)相容(あいい)れざるが如くである有部の「三世実有」説と経部の「現在(げんざい)実有過(じつゆうか)未無体(みむたい)」説とは果して遂に相許し得ないのであろうか。我々は既に、体滅用滅に関しては西義男教授によって「有為法に体と用とをわけて考える限り用滅である」という断が下されてあり、又舟橋一哉教授の「三世実有説の一考察」が三世実有説そのものを着実に吟味して同一の結論に到達しているのを見る。今はそれらの驥尾(きび)に付して、倶舎論に於ける有部と論主世親との論争及び順正理論に於ける衆(しゅ)賢(げん)の世親に対する反駁(はんばく)を検討し、その上に看取(かんしゅ)される有部の三世実有説の立場が、そのもつ有に対する極めて特異な考え方の上に立ちつつ、実は仏教の根本的な立場である諸行無常を主張せんとしたものである点について考察しようと思うのである。(櫻部建「説一切有の立
場」『大谷学報』31-1,1952,p.35、旧漢字を新漢字に改めた。ルビ・〔 〕内私)
ここには、法の三世に渡る実在を説く説一切有部に対する、懐疑が表されています。