「倶舎論」をめぐって

LXXXII
この後、櫻部博士は、次のように『倶舎論』の内容をまとめている。
 〔第1部で説かれる「法の理論」〕その目指すところはひと口にいえば諸行無常の論証である。そして、そういう諸行無常の中に繰り広げられるわれわれの迷いの生存の現実と、その迷いを脱却して悟りに向かう修行の道程とを、標式的に解き明かそうとするのが、『論』の第二・第三部である。…附篇としての「破執我品」(略して「破我品」)は、本頌が無いという点からも、はっきり前八章と性格を異にする。所説の内容は「我」の観念の否定ということに尽きるが、全体が、我有りとする主張に対する一問一答による論駁の形をとっている。論破の対象となっている「敵者」〔ジャクシャ〕は三つあり、第一は仏教内の犢子部〔トクシブ〕(ヴァートシープトリーヤ)あるいは正量部(サーンミティーヤ)のプドガラ説、第二は外道の数論派〔スロンハ〕(サーンキヤ)あるいは文法学派(ヴァイヤーカラナ)のアートマン論、第三は勝論派〔カツロンハ〕(ヴァイシェーシカ)のアートマン論である。それを論破し終わって、結頌三偈を置いて『論』は結ばれている。(桜部建『仏典講座18 倶舎論』昭和56年、pp.27-33,〔 〕内私の補足)
我々は、櫻部博士の説明によって、『倶舎論』の概要はつかんだ。各章の解説は、後にまた、見て行くことにして、ここで、再度、『倶舎論』の思想的重層性に触れておねばならない。
この点について、櫻部博士は、こう綴っている。
 『倶舎論』は、説一切有部における長いアビダルマ学の伝統を承けて、アビダルマ論書の一つの完成態を示したものである、と述べた。それはまさしくそのとおりであるが、しかし、『論』は説一切有部の代表的学流ヴァイバーシカ(「毘婆沙師」、すなわち『阿毘達磨大毘婆沙論』(アビダルマ・マハーヴィバーシャー)に依拠する学流)の伝統説をひたすら祖述するものではない。『本頌』においては、ほとんどの場合、一応伝統説によっていながら、『論』の長行(散文の註釈)においては、再々、それに批判的な異説を引くこと、あるいはヴァスバンドゥ自らの見解として異論を立てていることは、よく知られている。本頌を有しない「破我品」ではことに自由にヴァスバンドゥ自身の見解が披瀝されているようである。そうした部分に見られるヴァスバンドゥの考え方は、説一切有部の陣営内において主流である毘婆沙師に思想的に対立したサウトラーンティカ派(「経量部」あるいは「経部」)の説に通づるものが多い。そこに、古くから倶舎学者の間で論じられてきた「部宗の摂属」〔ブシュウノショウゾク〕という問題がある。『論』はときにはただちに経量部の書と見做されもしたし、あるいは「理長為宗」(理の長づるを宗と為す)と見られもしたのである。(桜部建『仏典講座18 倶舎論』昭和56年、p.36,〔 〕内私の補足)
既に、初めの方で、触れた問題が、再び、浮上してくる。私は、この問題について、最新のデータを駆使して、触れてみた。その際のことを思い起こせば、櫻部博士の説明には、いくつか難点がある。それを整理してみよう。世親=ヴァスバンドゥの『倶舎論』における思想的基盤を「経量部」(Sautrantika)とする見解については、まず、大きなハードルがある。「経量部」自体の正体が謎だからである。正体のはっきりしない部派に所属し
ていると主張することが、理に合わないのは明白であろう。次に、世親の立場を「理長為宗」(理屈を第1とする)と考え、部派を越えたところに位置すると看做すことにも、問題はある。「理長為宗」の理とは、何となく、合理的思考の重要視と受け取られがちだ。しかし、その理の内容が、もし限定出来れば、世親の目指すところは、櫻部博士の説明を大きく越える。私は、「理」の中味は、「分析至上主義」ではないだろうか、という仮説を立て
てみた。世親は、物体であれ観念であれ、分解あるいは、分析可能なものは、仮の存在に過ぎず、もうそれ以上分析を許さないものこそが、究極的な存在であると論じる。これが「分析至上主義」である。この主義を推し進めていくと、いつしか、説一切有部は、経量部どころか、唯識にまで至るのである。櫻部博士は、上の引用文では、唯識に触れることはない。しかし、多くの研究者が、『倶舎論』の中に、唯識的要素を見ている。このことは、
前に、詳しく述べた。唯識的要素を語らない櫻部博士の説明は、今の時点では、アカデミックな見解に沿わないものなのである。そして、経量部への言及も、やや、軽率な感を否めない。また、毘婆沙師の内実を『大毘婆沙論』に依存する人々とすることにも、少なからず、違和感がある。これによって、正統派との齟齬を浮き彫りにしやすくはなる。『大毘婆沙論』は、紛れもなく、説一切有部の基幹を荷う大百科全書ではあるからである。しか
し、その著述スタイルは、周到に過ぎ、玩物喪志のきらいがある。もっと議論を集約し、すっきりと論点を整理するような書が待望されたと思われる。『倶舎論』以前から、そのような要請は、あったはずだ。『倶舎論』がモデルとした『雑阿毘曇心論』などは、その過程で書かれたのであろう。『倶舎論』は、毘婆沙師達の積年の願望が結実したものではなかったのか、とさえ思われる。説一切有部あるいは、毘婆沙師の集団には、様々な動きがあっ
たと予想される。時代的には、大乗仏教が、地歩を固め、伝統部派が、その動向に危機感を募らせている頃である。『倶舎論』が執筆されたしばらく後に、衆賢は『順正理論』を著して、世親を批判したとされる。それを、正統派からの反論とだけとらえてよいのだろうか?私は、単純な反論と見るより、時代を睨んだ是正と見たい。『順正理論』に通じていない私がいえる筋合いもないのだが、単純な対立構造で説明がつくほど、『倶舎論』と『順正
理論』の関係、そして説一切有部の内部事情は、簡単なものではないようにも思うのである。もっとも、衆賢の立場を「ネオ説一切有部」として、伝統説の単純な継承者ではなかったことは、古くからいわれている。衆賢は、伝統の是正を加えたのに、依然として、説一切有部である。然るに、同じく是正を加えた世親は、伝統説からすると、不倶戴天の敵である。ひよっとすると、説一切有部→経量部→唯識という流れは、思想上の必然かもしれないのである。そして、その動きを支持するような人々も、説一切有部の内部にいたのかもしれないと想像する。その場合、衆賢は「ネオ説一切有部」で、世親は「非説一切有部」である、と単純に言い切れるだろうか?世親だって、「ネオ説一切有部」であると考えることも、あながち、無謀なことではない。私は、かつて、『倶舎論』の「二諦」説を、そのような観点から、訳したことがある。説一切有部も認知せざるを得ない「分析至上主義」を突き詰めた時、それは、思想上の必然である。「分析至上主義」に基づくとなると、伝統側からも、反論はしにくい。それは、ある意味、仏教の十八番だからである。とすれば、伝統説も、唯識への移行を認めるにやぶさかではないだろう。まして、『倶舎論』は、待望久しかった「簡潔な叙述スタイル」の完成態である。そんな雰囲気の中で、『順正理論』は書かれたのである。衆賢が、守ろうとしたものは、何であったか?「分析至上主義」だけでは、死守仕切れない「仏教の本義」。何かそういったものなのであろう。暫く、贅言を費やして、『倶舎論』を巡る思想的状況を語ってみた。これは、私の戯言として受け取ってもらえばよい。

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