「倶舎論」をめぐって

LXXVII
ほとんど漢訳に頼るしかない『順正理論』の読解に際しては、『倶舎論』の漢訳が最大の鍵を握っていることが、博士の報告でわかるのである。さらに博士は、『順正理論』著述にまつわる諸伝承を精査し、次のような結論に到っている。
 以上『順正理論』の成立について三つの伝承を確定し、その内容を紹介したのであるが、これらに共通な点は《世親がカシュミールの毘婆沙を批判しつつ『倶舎論』を造った。そして同時代の衆賢がこれに対して反論の書を著した》ということだけであると思われる。ところで実際に『順正理論』を読むと、衆賢は『倶舎論』の作者世親を「経主」の名のもとに、激しく又皮肉たっぷりに攻撃し、カシュミールの毘婆沙の義を弁護しているから、上のことはほとんど歴史的事実であることがわかる。(加藤純章「『順正理論』の諸問題(一)」『毘曇部第四巻月報 三蔵96』昭和51年、pp.32-33)
加藤博士の狙いは、経量部の解明にあり、そのために『順正理論』は欠かせない情報を提供するのである。博士は、1976年の段階では、次のように、経量部についての問題を整理している。
 このように現存資料による限り経部〔=経量部〕は、その発生及び初期の形態が極めて曖昧である。しかし、『倶舎論』の時代になると、有部に対する強力な反論者に成長していることもまた否定出来ない事実である。現在経部自身の資料は全く散逸してしまっているが、他部派(特に有部)の論書に引用されるものを通してみても、その教義は複雑に発展したようである。…ところでこのような経部は、いかなる形態をとっていたのであろうか。これについては未だ詳しい研究はなされていないが、桜部建博士は、経部は自らの三蔵を伝持し別箇独立の教団を形造っていたかどうかは極めて疑問であり、むしろ有部の論書の不備な点を問題にしていた程度に過ぎないのではないかとされる。この主張はまたラモット教授のそれと同様である。彼は「Sautrantika〔サーうトラーンティカ、経量部〕は他と同じ部派の一つというよりは、むしろ哲学運動を示している」ものと見、更に「今日まで、Sautrantikaの僧院の存在はいかなる碑文によっても確かめられていない」と述べている。(加藤純章「『順正理論』の諸問題(二)」『毘曇部第四巻月報 三蔵97』昭和51年、pp.38-39、〔 〕内私の補足)
これが1989年になると、相当に確定的な発言になる。博士はこう述べている。
 経量部毘婆沙(Sautrantikavibhasa)〔経量部解説書〕を造ったといわれるシュリーラータこそ、経量部の祖師または経量部という名称を最初に用いた人物であると推定される可能性が大きいのである。ところで『順正理論』にしばしば引用され破析される「上座」とは、シュリーラータであるという伝承説も、すでに我々のみてきたところである。もし、これが事実なら、この「上座」の主張を考察することによって、経量部といわれるものの思想がある程度うかがえるのではないだろうか。(加藤純章『経量部の研究』1989、p.147,〔 〕内私の補足)


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