「倶舎論」をめぐって
ところで、以前も古い『倶舎論』研究などのことを性相学と呼んでいた。これについて、昔の論文に説明があるので、示しておこう。
そもそも倶舎や唯識の仏教学を呼んで性相学と称することは、何時より始まりたるか、更に詳かならず、慧澄律師の『七十五法大意』には、「性とは法の体性の類の同じからずを云う、相とはその類の不同なるを見分る辺より云う、性相ともに法の事類差別を指して云うことなり」と云えり。是の意味より云えば法相と云うも、性相というも同意味にて、現象界の諸法を研究する学問と云う意味なり。法相宗の字義を解して諸法の体性相状を決択すというものも粗ぼ同一意味と云うべし。(妻木直良「性相随筆」『大崎学報』23,明治45年、p.52)
さて、この荻原博士のテキストには、大正大学聖語学研究室編の『稱友著梵文倶舎論疏について』という小冊子が付いている。ここに荻原博士の覚え書きが掲載されている。1部紹介しておこう。
原典出版の価値は、倶舎論は仏教の基礎学にして同時に仏教用語の百科辞典です。昔より唯識三年倶舎七年と云う諺のあるのも無理ではありません。漢訳用語の真義を明確に捕えず、随て五義も六義も種々の見方を出して解釈する如き頭を悩すを要しません。其他仏教研究に絶大の貢献あることは申すまでも無く又往々従来の不明や誤謬を釈明し訂正することが出来ます。
今は、『明瞭義』の内容にまで立ち入ることはしないが、最も、繁茂に利用されている『倶舎論』注であることは間違いない。かといって、『倶舎論』理解に際して、全面的な信頼を置くのも、実は、大いに、問題があるのである。その点については、後で、触れよう。それは、ともかくとして、『倶舎論』の中心的教理は、説一切有部(Sarva-asti-vada,サルバ・アスティ・ヴァーダ)のものとされる。この部派名も奇妙なものではある。これについて
は、前に簡単に触れた。ここで、その名の出典と思われる記述も、『倶舎論』から引用しておこう。
故に、過去・未来のものは、絶対(eva,kho na)存在すると、毘婆沙師(vaibhasika,bye brag tu smra ba)達はいう。間違いなく、このことは、〔毘婆沙師が〕「説一切有部」としてある以上、認められねばならない、と伝承されている(kila,grags)。なぜなら、
それが存在するので、〔毘婆沙師は〕一切が存在すると説く者達〔説一切有部〕と認知されたからである。
つまり(hi)、過去・未来、そして現在のもの一切が存在すると、語る者共、彼等が「説一切有部」なのである。然るに、現在、そして、結果をもたらしていない、若干の過去の業は存在し、結果をもたらした若干の過去〔の業〕、そして未来は、存在しないと、分けて、語るのは、分別論者(vibhajyavadin, rnam par phye ste smra ba)なのである。
サンスクリット原典
1. tasmad asty evatitanagatam iti vaibhasikah/avasyam ca kilaitat sarvastivadena sata’bhyupagantavyam/yasmat
tadastivadat sarvastivada istah,ye hi sarvam astiti vadanti atitam anagatam pratyutpannam ca,te sarvastivadah/ye tu kecid(read.kimcid,小谷・本庄本注7) asti yat pratyutpannam adattaphalam catitam karma,kincin nasti yad dattaphalam atitam anagatam ceti vibhajya vadanti,te vibhajyavadinah/
(P;p.296,ll.3-6,S;p.633,ll.2-8)
チベット語訳
2. de lta bas na bye brag tu smra ba rnams na re ‘das pa dang ma ‘ongs pa yod pa kho na ‘o zhes zer ro//thams cad yod par smra ba yin phan chad gdon mi za bar ‘di khas blang bar bya dgos zhes grag ste/’di ltar
de yod smra ba’i phyir thams cad yod par smra bar ‘dod/
gang dag ‘das pa dang ma’ongs pa dang da ltar byung ba thams cad yod par smra ba de dag ni thams cad yod par smra ba yin gyi/gang dag da ltar ba dang ‘bras bu ma skyed pa’i las ‘das pa gang yin pa cung zad cig ni yod/ma ‘ongs pa dang ‘bras bu bskyed zin pa’i ‘das pa gang yin pa cung zad cig ni med do//zhes rnam par phye ste smra ba de dag ni rnam par phye ste/smra ba dag yin no/ (北京版、No.5591,Gu.280a/6-280b/2)
玄奘訳
3.説三世有故、許説一切有。
毘婆沙師定立去来二世実有。若自謂是説一切有宗決定応許実有去来世以説三世皆定実有故、許是説一切有宗。謂若人有説三世実有方許彼是説一切有宗。若人唯説有現在世及過去世未与果業説、無未来及過去世已与果業、彼可許為分別説部。(佐伯旭雅『冠導阿毘逹磨倶舎論』II,平成5年、rep.of 1978,p.829,l.4-831,l.4)
真諦訳
4.是故知過去未来是有、毘婆沙師立如此。若人自我是薩婆多部同学。此義必応信受。何以故。偈曰由執説一切、有許。
釈曰若人説一切有、謂過去未来現世、虚空択滅非択滅、許彼為説一切有部。復余人説現世法必有過去業、若未与果是有、若過去業已与果、及未来無果此皆是無、若如此分別故、三世実有、此人非説一切有部摂、是分別部所摂。(大正新修大蔵経、No.1559,257c/19-27)
参照すべきテキストをすべて掲載してみた。サンスクリット原典の末尾に付したローマ字は、出典の略号である。Pはプラダン本のページ数、行数を示し、Sはシャストリ本のページ数、行数を示す。チベット語訳の個所の示し方は、末尾の( )内のようなやり方である。実際に、テキストを見ながら覚えなければ、ピントこないであろう。玄奘訳・真諦訳も、それぞれ末尾に個所を示した。このような示し方をすれば、大過ないように思う。サンスクリット原典の中に(小谷・本庄本)とあるのは、小谷信千代・本庄良文『倶舎論の原典研究 随眠品』2007の略号である。後で、詳しく、述べるが、『倶舎論』の訳注研究は、完備していて、その意味でも研究しやすい状況にある。