Tips of Buddhism

No.29
Wabi-sabi(侘寂)represents a comprehensive Japanese world view or aesthetic centered on the acceptance of transience and imperfection.The aesthetic is sometimes described as one of beauty thatis“imperfect,impermanent,and incomplete”.It is a concept derived from the Buddhist teaching of the three marks of existence(三法因sanboin),specifically impermanence(無常mujo),the other two being suffering(苦ku)and emptiness or absence of self-nature(空ku).( cite from Wikipedia Wabi-sabi,2004/08/27)

(訳)
侘寂は、包括的な日本人の世界観、または美意識を代表している。それは、儚さや不完全さを認めることを中心としているものである。その美意識は、よく、「不完全、刹那的、未完成」という美の1つとして、描かれる。三法印という仏教教理に由来する観念である。取り分け無常に由来する。他の2つは、苦そして、空もしくは無自性である。

(解説)
これもウイキペディアから抜粋した。説明の余地がないほど、日本人にはお馴染みの言葉であろう。よく「侘び茶」等という語を耳にすると思う。このような、茶道あるいは、華道の思想的背景は、仏教思想である。特に、中世以降、比叡山延暦寺で、唱えられた「天台本覚思想」は、日本中を席巻し、侘寂のベースともなっている。勿論、日本人学者の研究対象とはなっているが、最近では、外国人研究者も現れた。先に、1度使用した、ストーン『本覚と中世日本仏教の変容』J.I.Stone;Original Enlightment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism,J.I. 1999がそれである。ストーンは、本覚思想が、近代にも深く根を下ろしていることに驚きを見せる。一昔前に、日本中の仏教界を騒がせた、「本覚思想批判」「如来蔵批判」は、日本の研究者が起こしたものだが、その好例であろう。ストーンをはじめ、今や、欧米の日本仏教研究者のレヴェルは、極めて高い。漢文・日本語を十分読みこなしている人も数多い。茶道の利休と本覚思想との関わりを示す文を紹介しておこう。
 利休はかの「見わたせば花も紅葉(もみじ)もなかりけり浦(うら)のとまやの秋の夕ぐれ」という〔藤原〕定家(ていか)の名歌について、浦の苫屋(とまや)の寂(わ)びすました「無一物(むいちぶつ)の境界(きょうがい)」こそ「茶の本心」だと…教えられ、そのような「茶の湯の本心」は「草の小座敷(こざしき)にある…」と述べた。この「本心」とは、一般には、”本意・真意”というほどに解されている。だが私は、侘(わ)び茶のような中世美意識における「本心」という言辞(げんじ)は、…人は、詠歌(えいか)のような技芸を至高にまで進めるためには、己(おの)が心を、日常の揺れ続ける域から脱却させて、真実そのものを生きぬくための不動のもとの心の位に据え直さねばならない。そのことを天台(てんだい)止観(しかん)から学んで”歌道は仏道に通じる”と述べたのが『古来風躰抄(こらいかふうたいしょう)』であった。その基本が定家に受け継がれ、…さらに能楽や侘び茶の存在意義と目標をも啓発するようになった。おのが芸の道を”はかなきすさび”と危ぶみながらも、却(かえ)って人として物としての在ることの究極意義を発悟(はつご)するような、こころを本の心に振り向ける生存態度こそ、本覚思想の実践であった。…利休は「茶の湯の本意」は「水を運び薪(まき)をとり湯をわかし茶をたてヽ仏にそなへ人にもほどこし吾(われ)ものむ、花をたて香(こう)をたく、みなみな仏(ぶっ)祖(そ)の行ひのあとを学ぶ也」と語った。…”侘び茶の生成”は、すべての在るものを、それを在らしめている根源的な”いのち”に即して受け取り直していくための玄妙(げんみょう)な所作(しょさ)を工夫する道(marga)を歩み始めたのであろう。(三崎(みさき)義(ぎ)泉(せん)『止観的(しかんてき)美意識(びいしき)の展開 中世(ちゅうせい)芸道(げいどう)と本覚(ほんがく)思想(しそう)との関連』、pp.892-904、ルビ・〔 〕私、1部標記変更)


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