「倶舎論」をめぐって
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そのことについて、佐野靖夫氏は、こう述べている。
煩瑣哲学と揶揄されがちなアビダルマ思想であるが、どうしても膨大なテキストの中に木を見て森を見ぬが如き誤謬に惑わされてしまうことが多い。しかしながらアビダルマの綿密な論理体系はテキストの有機的考察抜きには決して語れるものではないであろう。ひとつの個所での論証は、他の個所の論証を前提にしており、それは自明のこととして、それがために論議が省略されている場合が数多く見受けられる。その理解には、テキストをひとつの完成された体系と捉え、そこに記述される文脈を明らかにする作業がなにより必要だと考えるものである。本発表の試論は、テキストをすなおにコンテキストとして捉えなおすことにより、思想の論理構造を明らかにし、その連関をたどるツールの開発に向けての一助たることを願うものである。(佐野靖夫「六足発智再考―アビダルマテキスト論理構造分析への試論―」『印度学仏教学研究』58-2,2010,p.942)
佐野氏は、データマイニングという手法を推奨しているようである。(p.942の注2))膨大なデータをコンピューターを使って利用するという昨今のやり方を、アビダルマにも適用しようとしているのだろう。やり様によっては、相当な成果を上げることが期待されるが、大事なのは、「どう分析するか」という見識である。そして、それはコンピューターから生まれはしない。地道にテキストを読んで、思考を繰り返すという昔ながらの方法以上に、そのような見識をもたらすものはないのである。