「倶舎論」をめぐって
LXVIII
次に、他のインド撰述注釈書について述べよう。まず、今までも何度か名の挙がった、ディグナーガ(Dignaga,陳那)には、『倶舎要義灯明論』(Abhidharmakosamarmapradipa,アビダルマコーシャマルマプラディーパ)という注釈がある。ディグナーガは、言わずと知れた、仏教論理学の大御所である。櫻部博士は、彼の『倶舎論』注について、こう述べている。多少、前と重複するが、以下に示そう。
この論書は、安慧〔スティラマティ〕や称友〔ヤショーミトラ〕のそれの如き註釈(tika,vyakhya)〔ティーカー、ヴヤーキュヤー〕ではなく、その標題の示すように倶舎本論の中から重要でない部分は選び捨て要処要処(marman)〔マルマン〕のみを抽き出してそれをそのまま書き列ね、場所によって、それでは多少前後の文章が、緊密を欠くような場合には、少しく原文を書き改めたり或は短切な文章を挿入してこれ補つたりして、巧みに本論の約三分の一強の分量をもつabridgmentに仕上げたものである。そのような手続きによって成された論書であるから、この書の内容には、陣那自らの手に成る部分は極めて少ない。また、その要約の方法も、陣那自らの興味に従って、本論の要処と考えられた箇処を自由に選び採って一論を成したというのではなく、ほぼ一定の仕方に従って、倶舎本論の中から枝葉末節の議論やくだくだしい説明に亘る部分を除去し、その論述の本筋のみを忠実に摘要したものようである。したがって、われわれは、この倶舎論綱要書の中に唯識因明の学匠陣那の面目をうかがわしめる叙述を見出すといふよりも、ただ、手落ちのない忠実な要約にすぐれた一例をそこに見得る、といふべきであらう。(櫻部建「陣那に帰せられた倶舎論の一綱要書」『東海仏教』2,1965,p.33,〔 〕内私の補足)
しかし、そう単純な綱要書でもない面もある。櫻部博士は、こう述べている。
ところで、興味深いことに、最後の〔第9章〕破我品だけは右に述べたような仕方に従っていない。そこでは原倶舎論破我品の八分の一程にまで縮められ、その摘要の仕方も、本論の論述の本筋を追って忠実にabridgmentを作したというのではなくて、原破我品に論ぜられている多数の論点の中で特に興味を引く数個の問題だけを採り出して並べ挙げているもののように見える。(櫻部建「陣那に帰せられた倶舎論の一綱要書」『東海仏教』2,1965,p.35,〔 〕内私の補足)