「倶舎論」をめぐって
LXXXXVII
更に見逃すことが出来ない著書に、谷貞氏『刹那滅の研究』平成12年(2000年)がある。谷氏の力点は、ダルマキールティに置かれているのだが、世親にも1章を割いて、詳しい考察を行っている。『倶舎論』の「滅無因説」が、『瑜伽論』「摂事分」に原型があると指摘し(pp.43-44)、次のような衝撃的な発言を行う。
偽装された大乗瑜伽行派のひとりとしてのヴァスバンドゥが三性説を外してAKBh〔=『倶舎論』〕において「自発的消滅論」をもって有部を攻撃した。あるいはそのヴァスバンドゥが初期大乗瑜伽行派においてその偽装されたアビダルマの刹那滅に対して批判をうけたとみることもできるとともに、逆に初期大乗瑜伽行派におけるアビダルマ的刹那滅論証を偽装してAKBhに持ち込んだとも考えられるからである。(谷貞氏『刹那滅の研究』p.49、〔 〕内私の補足)
他に、ロスパットの著書から、『倶舎論』関連の記述を抜き出してみよう。
説一切有部の伝統の枠内では、刹那は、最少の時間単位として、取り分け、専門的に使用された。アビダルマ的資料は、「時間の極限」(kalaparyanta)とした。つまり、もはや細分化され得ない最終的な時間単位としたのだ(刹那は分割出来ないだろう。bhettum asakyah ksano bhavet,Prmanavarttikavrtti)。この使用法、これは、明らかに、時間の原子的概念を前提としている。(ibid,p.96)
このような時期を経過し、『倶舎論』に至ると、以下のようになる。
実際、刹那の規格化は、もはや、その存続についての現実的な考え方をもたらすことはなく、ただ、刹那的実体を特徴付けるのに資するだけだった。故に、世親は、大胆にも、時間の単位ではなくして、刹那的実体という存在様式としての更なる定義を、刹那に持ち込んだのである。この定義によれば、刹那は、現実には生じても、実体の生起と同じような存続ではなくなる。直後の滅によって規定された生起(atmalabho ‘nantaravinasi)なのである。刹那的であるということは、そういう刹那を持つということなのである。その時、世親のいうように、生起した直後に滅するのは、必然である。このように、世親は、「刹那的な存続」として「刹那的」ということを定義するよりも、この刹那的存在を唱い、説一切有部のような曖昧な概念を排斥したのである。(ibid,pp.105-106)
ここに出てくる「atmalabho ‘nntaravinasi」という言い回しが、世親の刹那滅論を解く鍵である。ロスパットは、長い注で、この語を論じている。