「倶舎論」をめぐって
LI
さて、上の引用からわかるように、説一切有部は、別名毘婆沙師(Vaibhasika,bye brag tusmra ba,ビバシャシ)ともいわれる。この名前の由来については、従来、このヤショーミトラの『倶舎論』注=『明瞭義』の記述によっている。ついでといっては何だが、ここで、その記述に触れ、部派名について考察しておこう。問題の記述は、以下のようなものである。
vibhasaya divyante caranti va vaibhasikah,vibhasam va vadanti vaibhasikah/
(W;p.12,ll.7-8,P;p.13,l.21,サンスクリット原典ローマ字転写 )
bye brag tu smra ba zhes bya ba ni bye brag tu bshad pas rtse zhing spyod pas na bye brag tu smra ba’o//yang na bye brag tu bshad pa rig pas na bye brag tu smra ba’o//(北;Cu,11a/7-8、チベット語訳ローマ字転写)
これを以下のように訳す。2種提示しよう。
毘婆沙にて戯れ或はふるまうが毘婆沙師なり、或は、毘婆沙を知るが毘婆沙師なり、(荻原雲来訳注『和訳 称友倶舎論疏』(一)昭和8年p.21,l.4)
vibhasaによって遊ぶから、あるいは行くからvaibhasikaである。あるいはvibhasaを知るからvaibhasikaである。(岩崎良行「『倶舎論釈』における「毘婆沙師」の語義解釈(前編)」『櫻部建博士喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』2002,p.337)
荻原博士と岩崎良行氏の和訳を付した。ここで、「戯れ」あるいは「遊ぶ」対象とされている「毘婆沙」とは、これまで、『大毘婆沙論』という、この部派の有する百科全書的仏教書のことを指すといわれたきた。極最近、この問題を論じた齋藤滋氏は、こう述べて考察に入る。
「毘婆沙師(Vaibhasika)」とは、「大毘婆沙論」に依拠しその権威を認める集団を意味するとされ、説一切有部と同一視されている。世親は『倶舎論』(Abhidharmakosabhasya)において、経量部(Sautrantika)の立場で自説を展開しながら、毘婆沙師(Vaibhasika)を論駁している。近年のアビダルマ仏教研究においては経量部について多くの成果が公表されているが、批判対象となる毘婆沙師(Vaibhasika)については、周知のこととして、論じられることがない。(齋藤滋「『倶舎論』における「毘婆沙師」」『印度学仏教学研究』60-1,2011,p.377)
齋藤氏の下した結論は、以下のようなものである。
『倶舎論』中の毘婆沙師(Vaibhasika)は、「毘婆沙論」に依拠しその権威を認める集団(説一切有部)と、世親が自説を展開するために批判対象として設定した集団、という二重の意味が存在する。さらに、〔『倶舎論』の注釈者〕称友の「『毘婆沙』と戯れる」という解釈を重視するならば、侮蔑の意をこめて世親が「毘婆沙師(Vaibhasika)」の語を使用したとも考えられる。(齋藤滋「『倶舎論』における「毘婆沙師」」『印度学仏教学研究』60-1,2011,p.373)