「倶舎論」をめぐって
LXX
私には、ディグナーガの『倶舎論』注は、これから研究すべきものに思える。例えば、説一切有部では、純然たる知覚は認めない。必ず、判断が加味されると考える。しかるに、ディグナーガは、知覚と判断を峻別し、純然たる知覚を認めたとされている。この評価は、現在の学会では1種の定説である。『倶舎論』には、判断加味の知覚を承認するという明確な記述がある。この記述に対しても、ディグナーガは何も反論めいた注釈をしていないの
である。この点が、私には、非常に不思議に見えた。常識的に考えても、純然たる知覚など存在し得ないとも思った。それは、虚構の産物である。ディグナーガも純然たる知覚など想定していなかったと考えている。その判断材料の1つが『倶舎論要義灯明論』なのである。これは、私の仮説にすぎない。とにかく、ディグナーガは、1種の批判材料として、『倶舎論』を熟読したように思われる。ディグナーガ説の主要なものは、世親説を継承し
たものか、批判したものかの何れかである。世親なくして、ディグナーガはない。そして、ダルマキールティもない。例えば、ディグナーガには、「アポーハ論」という有名な言語理論がある。簡単にいえば、「言語と対象の関係は、不確定である」とする論である。これは、従来、言語を絶対視するインド思想に対するアンチテーゼとされ、仏教的な「不可言」・「沈黙」と軌を一にすると解釈されてきた。いわば、「空」思想の言語版と看做されたのであるしかし、不思議なことに、「アポーハ論」の原語anyapoha(アンヤ・アポーハ)という言葉が、『倶舎論』の二諦説に登場するのである。ディグナーガの『倶舎論』注は、世親の「二諦説」をなぞるだけだが、世親がそこで展開する徹底的な分析的思考は、十分に咀嚼したはずである。そこには、「空」的な観点は、一切ない。あるのは、徹底したリアリズムで、「部分と全体」に関するシヴィアな視点である。彼の「アポーハ論」が、『倶舎論』にヒントを得たものだとすれば、従来の「不可言」「沈黙」という解釈は、見直しを迫られるようにも思うのである。詳しくは、木村誠司「アポーハ異聞」『駒澤大学仏教学部研究紀要』70,平成24年、pp.148-139を参照されたい。ところで、『倶舎論要義灯明論』には1部翻訳も提示されている。本庄良文「陣那作『アビダルマ要義灯』世品(1)」『種智院大学研究紀要』1、2000がそれである。