「倶舎論」をめぐって
XXXI
近時、ローゼンベルに対する評価は高い。例えば、彼の著書を邦訳した佐々木現順博士は、そのあとがきで、こう述べている。
原書が初めてロシヤで出版された頃の我国の学界をかえりみる必要がある。その頃の学界―私の経験する領域内であるがーはまだ漢訳中心であり、而も、伝統―我国だけのーに従って、アビダルマ仏教を研究しており、その研究も仏教術語の基礎的知識を了解させるためという全く手段的役割しか持たされていなかった。その頃、若き学徒の思想的憧れをみたしてくれる著書は微々たるものであった。仏教に限らず、思想を求め、人生の根本問題を追求しようとする者は所詮、外国文献を通して、仏教をみなおそうとした
のではなかったかと思う。…本書は学問的息吹きと魂をこめた珠宝であると信ずる。…現代に於ても、文献的にも哲学的にも本書ほど着実な方法論を以って書かれている仏教書は決して多くはないと信ずる。…以上の理由で、碩学の名著たる本書は現在、なお欧米諸学者により頻繁に用いられ、常に新しい曙光を与え続けて来た。」(佐々木訳本、pp.309-311)
これが書かれたのは、1976年である。また、インド全般に詳しい、立川武蔵博士も、「『倶舎論』におけるダルマについて(一)」(『愛知学院大学禅研究所紀要』34,2006,pp.119-133)という論文において、ローゼンベルグの法(dharma,ダルマ)理解を、もろ手を挙げて、賞賛する。立川博士は、こういう。
彼のいう本質は、…すべてのダルマの根底にあるものなのである。ローゼンベルグはヴァイシェーシカ的なダルマ基体論には反対するのであるが、ある種のダルマ基体論を唱えているのである。われわれは、それを「唯名論的基体論」と呼ぶことにしたい。
(「『倶舎論』におけるダルマについて(一)」『愛知学院大学禅研究所紀要』34,2006,p133)
しかしながら、このような賛美の声が、当初から、あったのではない。実は、ローゼンベルグは、当時、一流の学者からは、手酷く、批判されていたのである。その学者とは、和辻哲郎(1889-1960)である。『古寺巡礼』などの著作で、今も名高い一代の傑物である。和辻の論文(和辻哲朗「仏教哲学に於ける「法」の概念と空の弁証法」(『朝永博士還暦記念哲学論文集』,1931)では、ローゼンベルグは「この年少にして気を追える若者」などと揶揄され、小僧呼ばわりされている。私も、ローゼンベルグやその師シチェルバツキーの仏教理解には、疑問を持っている。特に、彼等のダルマ解釈は、ひどく神秘主義的で、凡そ、私の考える仏教とは、異なっている。彼らは、どういう解釈をしたのか?重要なことなので、紹介しておこう。まず、ローゼンベルグは、かくいう。
法とは意識の流れとその内容を分解する諸要素の真実在的、超絶的、不可認識的任持者或は基体を云う。(佐々木現順訳『仏教哲学の諸問題』、p.116の訳)
Dharma heissen die wahrhaft-realen,transzendenten,unerkennbaren Trager oder Substrate derjenigen elemente,in welche der Bewusstseinsstrom mit seinem Inhalt zerlegt wird.(Die Probreme der Buddhistischen Philosophie,Heiderberg,1924,p.101)
このローゼンベルグ考えは、その師シチェルバツキーにも、ダイレクトに、影響を与えている。シチェルバツキーは、こう述べている。
しかし、存在の構成要素の概念は、一貫した哲学体系という形で、見事な上部構造を構築したけれど、その内奥の特質は謎のままである。ダルマとは何なのか?それは不可解である!それは微妙である!何人も、その真の特質(dhrma-svabhava)〔ダルマの自性〕が何であるかを、語り得ないであろう!それは超越的である!
But although the conception of an element of existence has given rise to an imposing superstructure in the shape of a consistent system of philosophy,its inmost nature remains a riddle.What is dharma/It is inconceivable! It is subtle! No one will ever be able to tell what its real nature(dharma-svabhava)is! It is transcendental!(Stcherbatsky、The Central Conception of Buddhism and the Meaning of the word “Dharma”, 1923,p.75, 金岡秀友『小乗仏教概論』昭和38
年、p.165を参照した)
これでは、仏教を神秘のベールに閉じ込めてしまう。往々にして、仏教に対しては、不可思議・神秘的・人知を超えたものなどのイメージを抱くかもしれないが、それは間違いである。仏教は、何よりも言語・思考を大事にする。そして、その代表格が、『倶舎論』であり、それに直結するのが仏教論理学なのである。中国や日本仏教のスタンスで、仏教を考えていくと、神秘主義的傾向を是として当然である。しかし、インド仏教は、その対極にあると認識してもらいたい。仏教論理学中の最大のビッグネームは、ダルマキールティであろう。しかし、彼に帰せられた7作品は、終に、漢訳されることがなかった。まさに押して知るべしである。インドと中国の仏教は、体質的に相容れないところがある。中国仏教の影響下に成立した日本仏教の体質も、また、仏教論理学に馴染まないものだったのである。然るに、インド仏教では、論理学は1種、花形的存在である。それは、論理と宗教の橋渡しをする重要な部門だった。仏教論理学の中でも、最も、ホットな話題、「ブッダはすべてを知ることが可能なのか?」という問題について、護山真也氏は、こう述べている。
ブッダの全知者性にせよ、輪廻的存在にせよ、普通、われわれはそれらを信仰の領域に属するものとして合理的思惟の対象としては考えない傾向にある。しかし、これまで確認してきたように、古代インドの仏教徒たちは、信仰と理性との間に線引きを行い、両者の架け橋を断とうとする近代的思考とは異なる地平で、これらの宗教的命題を捉えるための努力を行ってきた。それは、彼らの論理学が、決して経験的事象を記述することだけを目的としたわけではなく、むしろ最初から宗教的命題を視野におさめ、われわれの認識を超えた事象を検証・判断するための方策として構築されたことを意味するだろう。(護山真也「全知者証明・輪廻の証明」『シリーズ大乗仏教9 認識論と論理学』22012,所収p.253)
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