Tips of Buddhism

No.48
I would like to write about the old Japanese Buddhist study.You have never heard even the name.Since early times it is named 性相学(しょうぞうがく)(analysis of phenomena),which is especially flourished at the Kohuji(興福寺(こうふくじ))and at the Gangouji(元興寺(がんごうじ))in Nara(奈
良).(My composition)

(訳)
古い日本の仏教学について述べたい。皆さんが、名前すら聞いたことがないものである。古くからそれは、性相学(しょうぞうがく)と呼ばれ、特に奈良の興福寺(こうふくじ)や元興寺(がんごうじ)で花開いた。
(解説)
深浦(ふかうら)正文(まさふみ)博士は、この二寺について、以下のように言う。
 而(しこう)してこれら二流の敎(きょう)系(けい)は、前者が南寺傳(でん)と呼ばれ、後者が北寺傳(でん)と呼ばれる。その南寺傳とは、元興寺の傳であって、本寺は、如上(にょじょう)もと飛鳥(あすか)の地に建てられ、よって飛鳥寺とも稱(しょう)せられたから、この傳をまた飛鳥傳ともいう。その北寺傳とは、興福寺の傳であって、本寺は、その位置南都御葢(なんとみかさ)の山麓(さんろく)にあるところより、この傳をまた御葢の傳ともいう。(深浦正文『唯識學研究 上巻 教史論』2011オンデマンド版、1954年初版、p.382,( )内は本文にルビあり、他のルビは私の補足)
『倶舎論』が性相学の中心的役割を担い、それには、ヨーロッパの研究者も影響を受けた。大学者、ド・ラ・ヴァレ・プサン(de la Vallee Poussin,1869-1938)は、『倶舎論』全編のフランス語訳を成し遂げたが、そのプサンが、翻訳中、最も頼りとしたのは、何と日本の研究だった。プサンは、明治期の有名な学者佐伯(さえき)旭(きょく)雅(が)(1828-91)の『冠導阿毘達磨倶舎論(かんどうどうあびたつまくしゃろん)』を参考にしたと伝えられている。 『冠導阿毘達磨倶舎論』について、著名な『倶舎論』研究者、櫻部(さくらべ)建(はじめ)博士は、次のような評価を与えている。
 江戸時代の倶舎学の業績を承(う)けて、それを集大成(しゅうたいせい)し、巧(たく)みに整理して示したのが明治に現われた佐伯旭雅の『冠導阿毘達磨倶舎論』である。ド・ラ・ヴァレ・プサンがその不滅の大作たる倶舎論全巻のフランス語訳をなすに当たって、この冠導倶舎論を多く拠(よ)りどころとしたのも、当然のことといえる。おそらくこのような形の註解(ちゅうかい)は、インド以来の倶舎論学習の長い歴史の中で、かつて造られなかったし、今後も現われることはないであろうが、それを徳川期倶舎学の、あるいは広く徳川期仏教学の一大金字塔(きんじとう)と呼んでも、けっして過大な言い方ではないと私には思われる。(櫻部建「アビダルマ論書雑記一、二(三)」『毘曇部第十四巻月報 三蔵』106、昭和50年、p.107、ルビは私の補足です)
少々、毛色の変わった著書もある。『倶舎論(くしゃろん)名所(めいしょ)雑記(ざっき)』と言う。本書について、解説文を紹介しよう。
 〔佐伯旭雅は〕倶舎や唯識のような面倒な学問をした人であるから、きっと朴念仁(ぼくねんじん)のような人であったろうと想像されるが、実はさに非ず、旭雅氏の書いた「倶舎論名所雑記」には、あの複雑な倶舎の教義が軽快な七・五調で綴(つづ)られており、その中に、「…名高き名所は十六なれど、一部始終がむずかしい。三度・四度までも聞いても見やれ、それで
解せずば、止めやんせ」なんて書いてある。「得(とく)・非(ひ)得(とく)の薄霞(うすがすみ)」とか、「六因(ろくいん)四(し)縁(えん)の乱
れ髪」とか、「滅縁滅(げんえんげん)行(ぎょう)の金(きん)甲(かぶと)」というような有名な言葉は、みなこの中に出て来る
名文句である。旭雅氏は人情のわかる苦労人であった、という気がする。(舟橋一哉「インド仏教への道しるべ(2)-アビダルマ仏教―」『仏教学セミナー』6,1967,pp.49-50、
ルビ・〔 〕私)難解な教理を、1種のシャレで解説したのである。


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