note版 突然画力が伸びだした時、僕が発見した事
これは、僕のYouTube動画の台本です。台本、というと、これを朗読しているみたいですが、これをこのまま読み上げているわけではなく、話す内容を整理したり、それを頭に入れるために、まずこのくらい書かないといけないので、コツコツと文字を打って、何度も読み返して、それから話すようにしています。
普段はもう少しメモ書きに近いのですが、今回はしっかり書いたので、noteに置いてみます。
動画はこちらです。あっ、台本の時とタイトル違う……。
これは、僕の予備校時代のある気づきに関する話です。漫画やイラストではなく、鉛筆の石膏デッサンの話ですが、イラストでもこの考え方はそのまま使えます。
絵は基本的には手を動かさないと上手くなりません。でも、ただ枚数をこなしても、上手くなるとは限りません。予備校時代、何年も浪人していて、でもあるレベルで止まってしまう人もいたし、現役生でスイスイと上達していく人もいました。
僕は典型的な、要領が悪くて、枚数を描いても同じような失敗をして、なかなか成長できないタイプの人間でした。
それが、この考え方に気づいた瞬間から、伸び悩む、という事がほぼ無くなりました。そこから一枚描いたら一枚分、確実に上手くなって、その年に東京芸術大学に合格しました。
枚数を描く事は絶対に必要なのですが、そこにこれから説明する気付きが伴っていないと、昔の僕のように描いても描いても同じような失敗を繰り返す事になります。
では、その気づきとは何かという話ですが、結論を最初に言ってしまうと『人間は、自分が傷つかないで済むように、常に現実の認識を歪めて生きている』という事です。いわゆる岡目八目というやつです。自分の描いたものはよく見えるし間違いには気づきづらいものです。
そして、この人間の本能のような感覚をなんとかするために、僕がやった事は『でかい練り消しをグッと握る』です。
なんのこっちゃ、だと思いますので、順を追って説明します。
『人間は、自分が傷つかないで済むように、常に現実の認識を歪めて生きている』。僕がこの事に気づいたのは、予備校時代、東京芸術大学を受験する半年くらい前の事でした。
それまでは、予備校内での自分の順位は真ん中くらいで、時々いい絵を描けるときがある、というくらいの、まあパッとしない学生でした。デッサンをすれば形が癖っぽく、着彩は色の鮮やかさと明るさを頭の中で区別して考える事ができなくて、色がバラバラになりがちでした。
気づきがあったのは、アリアスの石膏デッサンの時でした。その頃、僕は、描いているときは上手く描けている、と感じているのに、講評では先生に酷評され、納得いかない、と思いつつ翌日改めて見返すと、魔法が解けたみたいに自分の絵が下手くそに見えて、まさに先生に言われた通りの欠点だらけの絵だった事に気づく、という事を繰り返していました。
講評会では、学生が描いた絵を上から上手い順に並べるのですが、大体、自分と同じくらい、と思っていた絵は自分より遥か上で、自分よりかなり下手だ、と思っていた絵が自分と同じかちょっと上でした。つまり自分の絵を全く客観的に見れていないという事です。
なんで描いている時に気づけないのか、と本当に不思議でした。逆に、描いているときに気付けさえすれば、直せるんじゃないか、と思うようになり、なんとか描いているときに正しく自分の絵を評価する方法を、かなりもがき苦しみながら探していました。
まず、自分の絵を冷静に、他人の絵のように見る事が大切だと思いました。なぜかというと、他人の絵に関しては、上手い絵とそうでない絵はひと目見ればわかるし、他人の絵ならデッサンの狂いは一発でわかるからです。
なので、まず自分の絵を鏡で反転させて見ました。イーゼルに立てかけてある絵を、上下ひっくり返して見る、というのもやりました。遠く離れて見る、というのも、みんなやっているデッサンの狂いを発見するメジャーな方法です。
静物や石膏のデッサンは、イラストほど左右反転で劇的に狂いに気づけるわけではないのですが、それでも、反転すると、自分が垂直だと思っていた線が微妙に斜めになっていたり、お皿のような楕円の膨らみ方に変な癖があったりする事に気づけて、まあまあ有益でした。
でも、その時にふと気づきました。デッサンの狂いを発見できたら、嬉しいはずなのに、一瞬『嫌だな』という感情が針で刺すみたいに一瞬意識の中に沸き起こる事に。そして、無意識に、その、デッサンの狂いを発見した事を否定しようとする感情が起きるんです。
これが、最初に説明した『人間は自分が傷つかないように常に現実を歪めて認識している』という気づきです。
つまり、我々は、自分の絵に対しても、他人の絵を見た時みたいに、無意識の深いレベルでは自分の絵の欠点やデッサンの狂いに気づいています。でも、自分の無意識の浅いレベルでは、デッサンの狂いに気づくと、今までものすごい時間と労力をかけて描いたこの部分を丸々消さなきゃならない、という事を認めなければならないので、その無意識の気づきを覆い隠して、『いや、デッサン狂ってないよ。うまく描けてるよ。大丈夫大丈夫』と自分の現実認識を歪めているのです。
この事に気づいた時、この、自分が傷つかないように、現実を歪めて認識させる心の声が出る瞬間を自覚できれば、そしてそれをぎゅっと捕まえて押しつぶす事ができれば、自分は他人の絵を見るときのように、自分の絵を客観的に見て、欠点を直せるようになるんじゃないか、と思いました。
それから、僕は自分の無意識の声に気づくための訓練を始めました。そのためにやったことが、でかいねりけしをぐっと握る、です。デジタルで描いている人は、いつもよりちょっと消しゴムツールのブラシサイズをでかくするとかでもいいです。
僕は、絵を描く前に、まずでかいねりけしを平べったく伸ばして、左手に構えて、もしデッサンの狂いに気づいた時に、自分の無意識が自分に向けて『大丈夫、狂ってない。直さなくて大丈夫』と囁いてきたら、その瞬間にこの練り消しで目一杯画面を消せ、と自分に強く言い聞かせて、本当に強く強く、自動的に起動するプログラムのように、自分の心に深く刻んでデッサンを始めました。
その日はアリアスの石膏デッサンでした。今でもはっきりと覚えているのですが、描き始めてすぐに、この絵はものすごくいいデッサンになる、という確信がありました。窓から入る光と、その光が壁に反射してできる反射光が、アリアスの鼻の左右に明るい部分を作っていたのですが、その差を的確に描き分けられたせいで、顔のあたりが、今までで一番的確に、立体感を持って描けていました。
11時半くらいに、ハッと冷静になりました。顔を少し先行して仕上げすぎてしまって、全体のバランスが疎かになりそうだと気づいて、慌てて全体に手を入れ始めました。
幸い、顔の大きさのバランスは的確で、直す必要はありませんでした。でも、何か小さな、不穏な違和感があり、じっと見ているうちに突然気づきました。アリアスはちょっと右を向いています(画面では向かって左を向いているという事)。なので、画面の左側の余白の面積を、右よりも少しだけ大きくしないと、構図的に少しバランスが悪くなるのですが、僕が描いたアリアスは、自分が正しいと思う位置より、7mmほど、左に寄っていました。
冷静に観察して、絵の修正ポイントを的確に発見できたのに、その瞬間、嫌だな、描き直したくないな、という気持ちが湧いて、そして無意識の表層あたりから『大丈夫、このくらいなら描き直さなくても大丈夫』という囁きが聞こえてきました。正確には、ものすごい勢いで、次から次へと『直さなくていい理由』が心のどこかから湧いてきました。
『これはとても重要な反射光の発見があったデッサンだから、このまま消さずに進めたた方がいい』
『今までも、消して描き直したら直す前より悪くなって、結局総崩れになった事が何度もあった』
『描写が良ければ構図の事は誰も気づかないかもしれない』
『そもそももう11時半で、消したら間に合わないんじゃないか』
そういう『やらない理由』がとにかく無限に湧いてきて、自分の意志を覆い尽くしました。
その瞬間、意識の端で、何かが起動しました。
『こういう状況になったら、たとえどんな損失があっても関係なく絶対これをやるって最初に決めたよな』
そして、僕は練り消しで思い切りアリアスの顔を消していました。
やっちゃったー、という気持ちと同時に、勝った、という気持ちが湧き上がって、本当に今まで自分をがんじがらめにしていた呪いが解けたみたいに、心が軽くなりました。
顔の描き直しは、やってみると、思っていたよりも大変ではありませんでした。まず練り消しで消しても完全には消えなくて、跡が残るので、それを手がかりに出来る事。そして一度描いているものなので、ディテールがしっかりと記憶に焼き付いていた事。
そんなわけであっという間に修正できて、結局、修正前よりも良くなったと思います。修正前は、上手くかけた、という気持ちが強すぎて、大きく手が入れられなくなっていたので、絵が固くなっていました。
この成功体験が、僕にとっては大きな転機でした。
僕は少しずつ、自分が傷つかないように現実を捻じ曲げようとする無意識の声を、捕まえて、ねじ伏せることができるようになっていきました。そして、その時から、爆発的に成長して、大学に受かり、大学院に進みながらアニメのキャラクターデザインの仕事をもらい、プロのイラストレーターになる事ができて、現在に至ります。
そして、絵が上手い人はみんな当たり前のようにこれができていています。最初から当たり前のようにできる人もいるし、僕のように散々苦労してやっとできるようになった、という人もいます。でも、上手い人はみんな、間違いを正当化しようとする無意識の声を跳ね除ける方法を持っています。
伸び悩む人はほぼ例外なく、この無意識の声に負けています。
自分の感覚では、絵に対する情熱とか思い入れが強い人ほど、この無意識の声も強力で、跳ね除けるのに苦労するのではないか、という印象があります。僕もそのタイプで、絵を描く事を大切に思いすぎていて、だからこそデッサンの狂いに気づいた時に、ものすごく大切に描いたものを否定して、消さなくてはいけない、と、より大きなストレスを感じるので、無意識の声がより強く『直さなくても大丈夫』と言ってくるのだと思います。
あまり絵に対する執着がなくて、ただお絵かきが楽しい、という気持ちだけで描いている人がスイスイとあっという間に上手くなったりする事があると思うのですが、それは執着がない分、自分は正しいと思い込む必要もなく、スイスイと直せるからじゃないかと思います。
じゃあ、絵に対して情熱を持っている事が、成長の妨げになるのか、というと、必ずしもそうではないと思います。なんとかして、自分の無意識の声を捕まえることができるようになったら、その声の強さによって、自分が直さなければならないポイントが他の人より明確になるからです。無意識の声を聞き取れるようになったら『ここは直さなくていいよ。大丈夫』と言ってくるポイントこそが、自分が無意識のさらに深い部分で直さなければ、と思っているポイントで、それを直せばいいわけで、だからこそ、苦労して自覚的に、無意識の声を聞き分けられるようになると、爆発的に成長できるわけです。
ものすごく熱心に時間や労力を割いて絵を描いているのに伸び悩んでいる、という人は、ぜひ自分の無意識が自分を傷つけないように囁きかけてくる心の声に気づいてください。気づければ、必ず跳ね除けることができます。
紙と鉛筆で描いていると、消して描き直す、というのはすごく大変な事なのですが、デジタルであれば、描き直しが劇的に簡単になります。さっき僕は、紙と鉛筆の人はでかい練り消しを握って、デジタルの人は消しゴムツールのブラシを大きく、と言いましたが、デジタルの消しゴムは100%消えてしまって、痕跡が残らないので、おすすめは、直す場所を選択範囲で囲んで、別レイヤーに保存。それを15%くらいで表示してアタリに使う、です。こうする事で、消して直すのは大変すぎる、という時でも描いたものを残しつつ修正できるので、精神的な負荷が劇的に軽くなると思います。
ここまで長々と説明してきたこの考え方が理解できたら、今日、この瞬間から絵に対する考え方が変わると思います。
まず、技術的な事として、今まで、左右反転したり、絵を離れて見たり、デジタルなら縮小してみたり、という行為は、デッサンの狂いを発見する方法だと思っていたと思うのですが、本当は、自分の中の認識の歪みを発見する方法なんだ、という事がわかるはずです。そして、デッサンの狂いを発見した瞬間心の中に一瞬沸き起こる『嫌だな』という感覚をしっかり自覚するための方法でもあります。
そして、自分のやっている事が間違っていた、と自覚した瞬間に無意識が『大丈夫、間違ってない。直さなくて大丈夫』と言ってきた瞬間にその無意識を捕まえて、ぎゅっとねじ伏せることができるようになると、それは絵だけでなく、自分の生活の全ての場面で、なんらかの形で、必ず自分を成長させてくれるはずです。
僕は、絵を描く事の真の目的は、まさにそれだと思っています。日常の生活の、他人がいたり、社会という場があったりする中で、自分の感情が自分の現実認識を歪めてしまうのを自覚して、認めて、直すというのは圧倒的に難しくて、なかなかできないと思います。
そんな中で、絵を描くという行為は、自分と絵しか存在しない世界で、ただ自分の心の動きを観察できる、ものすごくノイズの少ない学びの場です。絵の中で、自分との対話の繰り返しの中で、自分の考え方の歪みを直していけるなら、それは必ず自分を多少なりとも昨日よりマシな人間にしてくれるはずです。僕はそう確信しているので、ずっと飽きずに、熱意を失わずに絵を描き続けられています。そして、まあ少なくとも予備校時代に伸び悩んでウンウン言っていた頃よりは少しはマシになったと思っています。先はまだ長いですが。
そんなわけで、絵を描く上で一番大切な気づきは、自分の無意識は自分が傷つかないように現実を歪めて見せようとしている。という事です。
そんなの当たり前だよ、最初から知ってたよ、という人も多いかと思うのですが、僕のように、大変な思いをしないと気づけない人もいると思うので、話してみました。誰かのお役に立てば幸いです。