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#1 「野球ボールを蹴り返していたね」 【あべしょーのKick Story】

今回から本格的にスタートする新シリーズ「あべしょーのKick Story」。阿部翔平選手のこれまでの人生やキャリアを振り返りながら、「阿部翔平のキック理論」が確立されてきた背景を探ります。記念すべきシリーズ初回は阿部選手の生い立ち、サッカーとの出会い、そして当時のキックとの向き合い方について語ります。当時の阿部少年が憧れたプレーのほかに、後にチームメイトになるあのゴールキーパーについても伺いました。生粋のサッカー少年が横浜の地で見たもの、感じたもの、ぜひ以下のインタビューでご一読ください!

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1. 生い立ちとサッカーとの出会い

――まずは「あべしょーのKick Story」の初回ということで改めて自己紹介をお願いします。

阿部翔平です。今はSHIBUYA CITY FCで3年目ですね、プレーさせていただいております。筑波大学から2006年に名古屋グランパスに入団して、8年間名古屋でプレーした後、甲府で2年、その後に千葉で1年やって、もう一度甲府に戻ってから今のSHIBUYA CITY FCに所属しています。(現在)37歳で、今年で38になります。よろしくお願いします。

――日本屈指の左サイドバックにしてキックの名手がいかに生まれたかをこのシリーズではうかがっていきたいと思います。まず、幼少期の頃はどんな子どもでしたか?

大人しくて、何も発言しない子。とにかく自己主張が苦手。絶対に挙手はしないよね。でも、内面ではすごく「もう絶対答えは合ってるから指してほしいな」みたいなことを思う子。素直じゃないし、手あげればいいのにって思うんだけど、自己主張というか、自己発言みたいなのはできなかった。人前に立つのも好きじゃないし、注目は……注目は多分されたいんだろうね。もし間違えたら本当は合ってないんじゃないかみたいな、そういう恐怖感に打ち勝つことができなくて、発言の場はちょっと苦手だった。ただ、負けず嫌いで、特にキックの飛距離は誰にも負けたくなかった。スポーツの場になるとまわりの子とかを見ることなくできる子ではあったかな。これだけは負けたくないみたいなものは、その当時は目に見えていちばん(ボールが)飛ぶ人がすごいみたいなのがあったから、それはやるんだっていうのはあったかな。

――サッカーはいつ、どのようなきっかけで始めましたか?

幼稚園の頃から蹴るような遊びはしていた。(サッカークラブに)一緒に入った子と一緒の幼稚園で、その子と一緒に向かいあって蹴りあってたような感じだったかな。外遊びのときに園庭で一緒にふたりでボールを蹴るみたいな。家族の反応はね……うちの親父はもう諦めてたね。幼稚園くらいのときに、(お父さんが)こう野球のボールを投げて渡すんだけど、蹴り返して渡してくるから、もう野球をやるのは無理だって思ったらしい。(野球のボールを)蹴って返してくるから「これは無理だ」ってなったらしい。サッカークラブに入るときに、母親からは「水泳かサッカーどちらかにしなさい」っていうふうに言われて、母親は水泳をやらせたかったっぽいけど、自分自身はもう頑なに「もう水泳なんか嫌だったから」っていう感じで(サッカーを選んだ)。

――本当に生粋のサッカー少年だったんですね!

蹴ってたねえ。

2. 阿部少年と横浜フリューゲルス

――当時憧れていたサッカー選手はいましたか?

横浜フリューゲルスのエドゥー。フリーキックはもう衝撃的だったよね。小学生だったらすごく遠い距離で入るのはわかるんだけど、大人のプロであの距離から決めるっていうのはもう相当すごいんだろうなっていう。ああいうふうなキックを将来したいなっていうのはあって、(自分自身のプレーと)重ねてたかなというのはある。最終的にああいうふうになりたいっていうのは強く思っていたかな。

――ちなみに、後にグランパスでチームメイトになる楢﨑正剛さんのフリューゲルス時代のことについては何か印象に残っていることはありますか?

(当時の楢﨑選手を)見てたからね。もう選手権から見てたかな。高校の選手権ですごい活躍してる選手がいるみたいに話題になって、そのキーパーがフリューゲルスに来たっていう感じで。その当時、レギュラーで森(敦彦)っていう選手が出てて、レゲエキーパーみたいな選手で、そのキーパーも悪くなかったとは思うんだけど、でももうその森さんからポジションを奪うくらいのすごいキーパーだったから、尊敬っていうか、森さんからスタメン奪って試合に出るから、試合を見るたびにすごいなあというのは感じてたかな。その後名古屋でも話したけど、なんかあったかな(笑) 「(僕が)フリューゲルスの生き残りです」みたいな感じで言った気はするけど、「おー見てたんか」とかそういう感じだったかな。

3. 後ろから前へ

――当時のポジションはどこでしたか?

最初はサイドバック。それから左上がってって(LMF)、真ん中やって(FW)、それで最後ポンって1個落ちた感じ(OMF)。コーチが見ててちょっとずつ前に上がっていった感じかな。最初は多分まわりよりも蹴れるから後ろのほうで、左利きだし置いておこうみたいな感じだったと思うし、サッカーもちょっとずつ上手くなってきたから攻撃のほうに入れようということでサイドハーフになって、最後は得点も取れるし、ボールにたくさん触ったほうがいいだろうということでフォワードになったみたいな感じだったかな。

――阿部選手自身は当時そのポジションについてどう思っていましたか?

前(攻撃的なポジション)のほうが楽しかったかな。得点取るっていうほうがすごく結果として出るからわかりやすいし、性格上確かに点を取るっていうのは、僕が取らなくてもいいって思ってたかもしれないけど、自分がいざフォワードになって取りはじめると、なんかちょっとそのおもしろさに目覚めたっていう感はあるのかな。みんなに口ではこうアピールできないけど、プレーとして数字として出るから嬉しかったよね。

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――当時のプレースタイルはどのようなものでしたか?

左利きの万能プレーヤーでした!(笑) 欲を出さずに軽いワンタッチでゴールを決めるのが得意だったような。フォワードになってそんなキックを使うってことはそんなになくなったかなっていうのはあるかな。右サイドとかにすごい速くてドリブルできる子がいたから、最後にゴール前で待っててクロスを思いっきり振りかぶってダン!って決めるんじゃなくて、インサイドとかで欲張らずにコース狙ってちょんって決めるみたいな。過程にはそこまでこだわらずに、別にかっこいいゴールを目指すっていうわけでもなくて、最後(に目指していたもの)は結果だし、まわりも使いつつっていう感じで。自分でもいけるかもしれないけど、まわりも使ってパスしながらとか、そういうことができてたかなとは思うかな。

――当時のいちばん思い出に残っていることは何ですか?

キックオフゴールを決めたことかな。ひとつこうキックオフゴールは決めたいっていうのがあって、キックオフしたときはゴールに向かって蹴ってた(笑) 1回だけ決めて、それは嬉しかったなあ。それは自分にもまわりにもすごく印象に残ったんじゃないかなというのはあるね。今、何十年後にコーチとかと話しても「あのシュートはすごかったね」みたいな感じで。

4. キックの限界を目指して

――初回のnoteでは「初めは『遠くへ飛ばすにはどう蹴ったらいいのだろう?』から始まって」とありますが、すでにこの頃にはキックを意識していたのですか?

とにかく遠くへ飛ばしたいという気持ちしかなかったね。いろいろな部位で蹴ってみたり、助走を長くしてみたり、思いっきり振りかぶってみたり、思いつくことは全てして理想にたどりつけたという感じ。筋力と柔軟性のところの限界という意味では当時の限界にはたどり着いたのかなって感じはする。また足とかも大きくなってきて、足の入れ方とかも変わってくるけど、その当時のサイズにしては限界にはたどりついたかなっていうのはあったかな。

――限界にたどりつくためにどんな練習をしていましたか?

「今日はこの距離から」とかを決めて、壁に向かってずっと蹴ってた。的当てみたいな大きい壁が小学校にあって、もう毎日のように学校行って、家帰ってきて、ランドセル投げて、そのままサッカーボール持って行くみたいな感じで。あとは年上とかをけっこう目標にしてたな。1個上とかは当たり前みたいな感じで、高校生とかと一緒にサッカーしてるみたいな。全然うまくないような小学校の校庭に遊びに来るような高校生たちと一緒にサッカーをしたりとか。キックというよりかはプレー面のほうになっちゃうけど、そういう自分よりも大きいとか速いとか強いとかみたいな人たちとやれたっていうのは自分を高めるという意味ではすごくよかったなっていうのはあるかな。

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今回は阿部翔平選手の小学生時代にフォーカスしたnoteをお届けしました。次回、4月23日(金)に公開予定の「あべしょーのKick Story」では阿部翔平選手が横浜フリューゲルスジュニアユースでプレーすることになる中学生編をお届けする予定です。どうぞお楽しみに!


監修・制作:阿部翔平(SHIBUYA CITY FC)

取材・制作・編集:川上皓輝(SHIBUYA CITY FC スタッフ)


阿部翔平 公式YouTubeチャンネル「阿部翔平/Abe Shohei」

阿部翔平 公式Twitter(@abeshohei21)

SHIBUYA CITY FC 公式サイト

阿部翔平(あべ しょうへい)
1983年12月1日生まれ。神奈川県横浜市出身。主なポジションは左サイドバック。横浜フリューゲルスジュニアユース、市立船橋高校、筑波大学を経て2006年に名古屋グランパスでJリーグデビュー。2009年には日本代表にも招集されると、2010年には左サイドバックの主力として名古屋のJ1優勝に貢献した。ヴァンフォーレ甲府やジェフユナイテッド千葉でもプレーしたのち、2019年に当時東京都2部リーグ所属のTOKYO CITY F.C.(現 SHIBUYA CITY FC)に加入。Jリーグ通算355試合出場4得点。

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