全体の奉仕者
須田平助の出勤時間はいつも寸分違わず正確だ。
隣家の若夫婦が平助が家を出るのを見て、慌てて子どもたちを保育園へ連れ出すのを見たことがある。時計代わりにでもしているのだろう。
「おはようございます」
隣家の幼い兄がお揃いの黄色いスモックを着た妹を抱きしめた姿勢で元気な挨拶をしてくる。本人は抱っこをしているつもりなのかもしれない。
妹の諦めたような委ねきったような表情が半ば羨ましくも思える。
物心のついた頃から平助は決められた時刻に遅れたことがない。勤め始めてからは電車事故などに巻き込まれた場合は休暇を取得する。妻には、あなたの生き方は時間に支配されている、なんて笑われたこともあるが、むしろ望むところだ。
絶対的な基準に従っていればよいのだからこれほど楽なことはない。もちろん楽だから楽しいということではないのだが。
定刻どおりに運行している私鉄と地下鉄を乗り継ぎ、始業の十五分前には職場の自席につく。
パソコンを立ち上げ、メールをチェックする。始業五分前にはあらかたの課員は揃うが、課長はたいてい十分から二十分ほどは姿を現さない。
「須田補佐、昨日の決裁なんですがまだ課長から戻ってこなくて」昨年入職したばかりの部下がおずおずと聞いてくる。 「課長が出勤されたら確認してみますね」
時間厳守を他人には求めない。色々な人がいるのだから、それでよいと平助は受け止めている。
ただ、それをよしとしない人ももちろんいるだろう。今決裁のことを尋ねてきた鈴村なんかは許せない側の人間だ。
給湯室で課長の遅刻について主任に愚痴っている場面に出くわしたことがある。
平助が正しい時間を守るように、鈴村は正しく規則を守ろうとしているのだろう。そこに身を委ねることで自己を守ってもらっている。
十七分ほど遅刻で出勤してきた課長に未決文書について尋ねると、途端に嫌な表情を見せた。
「それくらい補佐で判断してくださいよ。いつもお願いしてますよね? ご自身の頭で考えて行動してくださいって」
課長は中央から出向してきている総合職組で、平助よりも年下である。年功序列の色濃く残る職場ではあるが、要となるポストには中央からの出向者が就くので、時折こうした年齢の逆転が発生する。
年齢関係なく、上司の指示には従う。長年この仕組みで回ってきた組織なので、構成員全体がそういうものだと受け入れている。
そのシステムに自らを託すことのできない者は、管理する側を目指して組織から抜けることを選択する。早晩、鈴村はそちら側に行くだろう。
こちら側にいる平助は諾々と課長の言葉を丸飲みする。飲み込む喉に違和感はない。
課長印のない決裁文書を持ったまま、平助は中学生の頃の出来事を思い出していた。
部活動の練習で長距離を走った。ペースが分からない平助は一学年上の先輩の背中にひたすら着いていき、そのままゴールした。
平助にしてみればなんとか先輩に着いていけただけなのだが、先輩にはそれが気に食わなかったらしい。「抜けるんだったら抜けよ、バカにしてんのか」となじられた。 次からは別の先輩に着いていくことにした。自分のペースで走ることは難しく、誰かに委ねた方が良い結果が出る。平助をなじった先輩はしばらくしたら退部していた。
決裁文書は課長の押印欄に斜線を引いて鈴村に返した。もちろん課長の指示による措置である。
昼飯は妻の作ってくれた弁当を自席で食べる。
午後もつつがなく業務を遂行し、定時になったのでパソコンをスリープにして席を立つ。鈴村と課長が打ち合わせテーブルで何やら議論をしているのが見えた。
平助が採用になったころは、採用者は全体の奉仕者として職務遂行するよう宣誓させられたのだが、課長や鈴村も宣誓したのだろうか。二人の陶酔したような議論を横聞きしながら「お先に失礼します」と小さく告げ職場を出た。 地下鉄も私鉄も時間どおりに平助を運んでくれる。自動車通勤をしている同僚もいるが、運転が少し苦手な平助は採用からずっと電車で通勤している。
一時間弱で自宅に到着する。
三十歳のときに二十五年ローンで購入した二階建ての家は、夫婦二人で住む分には充分な広さだ。繰上げ返済はせず地道に返し続けてあと一年。粛々と淡々と積み重ねた年月と金だ。
「おかえり」リビングのソファでスマートフォンを操作しながら妻が迎える。
うん、とか、ああ、とか曖昧に返事をして二階に上がる。
部屋着に着替えて階下へ降りると、妻はカレーライスをダイニングテーブルに並べていた。カレーライスは美味しいから好きだ。
「カレーでいいでしょ?」
毎週水曜日に生協から届くカレーライスは温めるだけで食べられる。美味しくかつお手軽なのでデメリットはない。
仮に何かしらのマイナスがあろうとも平助は妻の出した食事に文句をつけたことはない。黙々と食べる。
子宝には恵まれなかったが、一般的な平均的な幸せを享受できていると平助は感じている。
妻とは上司の紹介で結婚した。披露宴で結婚の決め手を聞かれた際、「わたしの言うことを聞いてくれそうだったから」と笑っていたことを思い出す。これまでの結婚生活、果たして妻の期待に答えられてきただろうか。
二十三時に就寝。妻はスマートフォンをいじっていた。 朝は六時に起床。妻の寝室からは小さめのいびきが聞こえる。妻はいつも平助が出勤する頃に起き出してくる。
トースターに六枚切りの食パンをセットし、お湯を沸かす。昨夜のうちに用意してくれた弁当がダイニングテーブルの上に置いてある。変わらない朝。決められた日常。
支度を終え、時計代わりに見ていたテレビを消すと、妻が起きてきた。
「燃えるゴミ、捨てといて」
うん、とか、ああ、とか曖昧に返事をして玄関を出る。 最寄り駅とは逆方向にある収集場にゴミ袋を放り、来た道を引き返す。隣家の前を通り過ぎようとした瞬間、「イヤなの!」幼い女の子の叫び声が響いた。
どうやら隣家の下の子が保育園に行くのを嫌がっているらしい。小さな兄は困り顔だ。若夫婦はまだ家の中か。 「おはようございます」それでも大きな声で挨拶をしてくるのは素晴らしい。
「はなちゃんが保育園行きたくないって言うの」
まだ電車の時間には余裕がある。平助は彼らに対応することにした。
「そうなんだ。お母さんはどうしたの?」
「お化粧してる」
泣き止まない妹を幼い兄が抱きかかえようとするものの、妹はやたらめったらに手足を振り回すためうまくいかない。
「おじさん、なんとかしてください」
彼らとは毎朝挨拶を交わす仲でもあるし、お願いされれば応えることは平助としても吝かではない。
泣きわめく妹の前にしゃがみこみ、視線の高さを合わせて質問する。
「どうしたら保育園に行けるかな?」
突然現れた中年男性に声をかけられ、女の子は大声を出すことをやめた。平助の顔を見て、それが見知らぬ人間ではないことに気がついたようで、暴れ放題だった表情が見栄を張るように変わる。
落ち着いたその隙をついて兄がいつものように抱きかかえようとすると、妹は巧みにその腕をすり抜けて平助の前で仁王立ちになった。
「うまになれ」
幼女が平助に命じる。どこかでスイッチの切り替わる音が聞こえた。
「おじさんがお馬さんしたら保育園に行けるのかな?」 平助の問いに、一段上からの表情を崩さず幼子が頷く。少し上向けた顎の角度は誰に習うのだろう。
平助はアスファルトの上に四つん這いになった。兄妹の喜ぶ声が耳に届く。
午前休にしようか全日休にしようか考えていると、背中に熱い塊が飛び乗ってきた。両腕に力をこめてしっとりと詰まったその重さを受け止める。
「うごけ」
ジャケット越しに伝わる高い体温。
掌と膝に食い込む小石の角張り。
駅まで向かう者が寄こす一瞥。
鼻先を擦る幼児の靴の臭い。
何もかもが平助を征服する。蹂躙する。湿り気を帯びた背中から、平助の芯が熱くなっていく。あらゆるすべてを委ねたい。命ぜられて生きていたい。今日は、全日休にする。
平助は顔を上げてひたすら前を向き、ゆっくりと進む。保育園は、まだ遠い。