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#ゆたかさって何だろう に募集してみた。

ゆたかさ

ゆた‐か【豊か】 の解説
[形動][文][ナリ]
1 満ち足りて不足のないさま。十分にあるさま。「黒髪の豊かな女性」「緑豊かな森」「才能の豊かな画家」「国際色豊かなマラソン大会」

2 経済的に恵まれていてゆとりのあるさま。「豊かな家に育つ」「豊かな生活」「給料日後で懐 (ふところ) が豊かだ」

3 心や態度に余裕があって、落ち着いているさま。「豊かな心を育む音楽」「心豊かに余生を過ごす」

4 量感のあるさま。「豊かな花房」「腰の豊かな丸み」

5 他の語に付いて、基準・限度を超えているさまを表す。「六尺豊かな大男」

「ゆたかさ」とは、不足していない、たくさんある、恵まれている、など質量や数値、感覚や精神などがある程度満たされている状態のことのようです。

ある程度満たされている状態。

さて。一番最初にふと思ったこと。

何と比べて?

ある「基準」と比べて、多い・大きい・不足なしと感じる様をゆたかさ、と定義しています。

つまり、ゆたかさを表すには何らかの「比較対象」があることが前提になっています。

私は、この比較対象となる「基準」こそがゆたかさの真の正体だと思っています。

今回は「レオス・キャピタルワークスの投資信託「ひふみ」とnoteのコラボコンテスト「#ゆたかさって何だろう」について書いてみます。


まず最初に、ひとつ簡単な例を挙げます。

年収が350万円の男性が二人います。どちらも30歳で独身です。容姿もほぼ似ているとしましょう。

・Aさんは、周りの高収入の友人たちと比べて自身の年収が低いので、金額を言うのが恥ずかしいと思っています。

・Bさんは、幾度となく就職活動に失敗したがようやく正社員になり、昨年初めて年収が350万円を突破しました。

二人の共通点は「年収350万円」「30歳」「独身」「男性」「容姿」。

ほぼ同じ条件下でも歩んできた人生によってAさんとBさんでは「ゆたかさ」の感覚はまるで違うのがわかります。

Aさんは、周りの友人などの環境が作り出した「基準」によって年収が「低い」と感じている。

Bさんは、定期的なお給料さえもままならなかった過去が作り出した「基準」によって年収が「高くなった」と感じた。

この例を見ると、「ゆたかさ」は数値や量で表せるものではなく、比較対象となる「基準」が醸し出している状態だと考えられます。

そして、上記のようにこの「基準」なるものは個人の軌跡によって大きく異なります。

よく、日本は物質的にも環境的にもとても豊かな国だと言われています。おそらく、貧しい国や発展途上国などを含めた「世界の平均基準」と「比較」した結果、我が国は「ゆたか」であると感じるのでしょう。

であるにも関わらず、多くの日本人は自分が「ゆたか」であると感じていません。

一体なぜか。

よく言われるのは自己肯定感の低さなどが指摘されています。幸福度と相対している指数としてよく話題に上がる自己肯定感ですが、実際にこれが上がれば「ゆたか」であると感じられるようになるのだと思います。ですがその自己肯定感を簡単にあげられない根本的な理由があると私は考えます。

それは、

比較対象である「基準」が間違っているから

ではないでしょうか。

AさんとBさんの例で見ると、

30歳男性の年収350万円は高いのか、低いのか。

さらに、30歳の男性といっても住まいは都市部なのか地方なのか。仕事はサービス業なのか農業なのか。趣味はアウトドアなのかインドアなのか。恋愛には積極的なのか消極的なのか。

同じ30歳男性でも、たった二択の選択肢で生活様式はこれだけ違ってきます。

生活様式が違えば、必要なお金も違ってきます。

しかし、メディアなどが30歳男性の平均年収をご丁寧に教えてくれるうえに、ニュースアプリなどでオススメの記事が毎日目に入ってくるもんだから、自分の年収が平均の「基準」と比べて高い・低いと強制的に考えさせられてしまいます。

平均に満たない自分は「ゆたか」ではない、と。

これだけ多様性が叫ばれている時代でも、いまもなお「平均」の「基準」に対する考えは根強い。

おそらくは一億総中流社会的思考を色濃く引き継いでしまっているからではないでしょうか。

多くの人はうすうす感じているとは思いますが、今後、と言うより現在ですら格差は当たり前になっています。さらに今後はますます顕著化します。

そんななかで「比較」するなと言われても難しいと思います。

しかし、間違った「基準」との比較をし続けている以上、自己肯定感は上がりにくく、幸福度も低いままで、「ゆたかさ」を感受できるようになることは難しいのではないでしょうか。


さて、ここまでのキーワードは

「基準」と「平均」と「比較」です。

私はこれらのキーワードで「ゆたかさ」が何であるかを考えています。極端に言えばこの3つを少し考えるだけで、あっという間に「ゆたか」になれると信じています。

・基準…その基準は果たして自分に合った「基準」となる数値なのか。そもそもその「基準」と自分を比べることに意味があるのか。その「基準」を目指した結果幸せになれるのか。

・平均…「平均」の長所は、意味が明確で、対象となるすべてのデータを扱って算出される点。短所は、外れ値の影響を受けやすく、適切な代表値ではない場合がある点。「平均」と上手に付き合わないと余計な思考で頭が埋まってしまう。

・比較…人と比べてしまうことは、私たちが生まれながら持つ「弱さ」。まずはそこを認め、「相対評価」ではなく、「絶対評価」で自分を図る。


この3つについて考えると、「本当はこうありたい自分」が見えてきます。

・死ぬときに自分や環境はどうなっていたいか。

・○○歳のときにはどうなっていたいか。

・来年はどうなっていたいか。

これらの目的に沿ってやるべきことをしている。これこそが「ゆたかさ」であると私は思っています。


私は自分が死ぬ時を想像しながら生活をしています。

死は必ずやってくるので、できれば遠い未来であってほしいイベントですが、自分の死を想像することは決してネガティヴなイメージではなく、死の直前はこうなっていたいと思う最終目的のようなものを常に持っています。

自分の死はできれば穏やかに、そしてたくさんの思い出と共に迎えたいと考えています。

その穏やかな死を迎えるためにすべきことは何か。

穏やかに死ぬには、なるべくトラブルは少ないに越したことはありません。そのためには家族はもちろん、周りの人々や友人たちと楽しく暮らし続ける努力が必要です。

楽しく暮らし続ける努力をするには、ある程度の生活水準が必要です。過度な贅沢をするよりも、貧困によるストレスが生じない程度の水準が必要です。ですが、たくさんの思い出と共に死ぬという目標もあるので、たくさんの思い出を形成するためにも時間やお金はもちろん、よりよい人間関係の構築も必要です。

健康にも気をつけます。死の直前が寝たきりだったり病床に伏せっている可能性は高いです。ですが、日頃の生活習慣でその期間を少しでも縮めることは可能です。そのためには、体にいいものを食べたり、運動したり、楽しいことを予定したり、多くのコミュニティで活動したりすれば、健康の維持はもちろん、高齢期の孤独感も緩和されるかもしれません。

それらを維持するためには、年間だいたいいくらくらい、生涯でいくらくらいが必要か、を算出することができます。

そこでようやく自分が稼ぐべき金額が分かります。穏やかに死ぬための経費や、自分が死後に持っていきたい思い出を作るための経費なんて人それぞれですから、基準も平均も比較もなにもありません。

もちろん急に命を落とすこともあります。例えば新型コロナウイルスの感染拡大により、死に目に会えなかったご遺族も多かったようですが、このことは決して人ごとではありません。交通事故や何か事件に巻き込まれる可能性だってあります。どうにか避けたいものですが、そうなってしまってはどうにもなりません。

しかしその場合、穏やかな死は迎えられないにしても、少しでも悔いの残らない人生にすることは可能です。いつかやろうとしていたことを前倒しでやってみたり、優先順位を変えたり、会っておくべき人に会いに行ったり。


最後にもう一度。

これらの目的に沿ってやるべきことをしている。これこそが「ゆたかさ」であると思っています。

物質的な豊かさでもなく、精神的な豊かさでもない。

「本当はこうありたい自分」になるための日々の「生活」が大切なのではないでしょうか。

ここまで読んでいただいたあなたに幸多からんことを!

#ゆたかさって何だろう

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