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「神武建国譚伝説に残るヘブライ・アラム語からその場所がわかる-大分県湯布院盆地」

 この記事は、2013 年 1 月 10 日 の修正論文です。2019 年11月 1 日 執筆 阿部 学こと(manase)
1 はじめに
 これから展開する論文は、『記紀』にヘブライ・アラム語が残っているという状況に、古代その話者達が大挙して「西暦2世紀以降にこの孤島に到着して国家を造ったのかもしれない」という仮説が仮説でなくなっているというものです。 その話者達の移動は、日本書紀編纂時よりもかなり古い時代の話であり、ひょっとしたら、イスラエルの失われた10部族の末裔が大挙して日本に到着した時の感動的な伝説が、この神武紀に残って採用されたとも感じています。また別の記録では、多くの記録が、駕洛国の金首露王の伝承をもとに創作されたともいえそうです。駕洛国(金管伽耶)の『紀』表現の任那付近の首都から移住したその子孫が、神武が初めて国を得た地に移住して混交して栄えたのが、『隋書俀国伝』から華夏族(かか)の末裔の秦王国(七世紀初頭)かもしれないのです。上の写真の右下は兵隊時代の父です。山形庄内地方生まれ
2 『日本書紀』巻三神日本磐余彦天皇〔神武〕にある畿内征服の話に残る正史『日本書紀』から引用しますが、欠字と原文との違いもあるので、私が調べて色フォントで直してあります。
神武天皇三一年(辛卯前 630)四月乙酉朔》夏四月乙酉朔。皇輿巡幸 因登腋上嗛間丘 而廻望国状曰 妍哉乎国之獲矣 妍哉 …此云鞅奈珥夜)?雖内木錦之真⁶■国 ?猶如蜻蛉之臀呫焉 由是始有秋津洲之號也 
【 真⁶迮国=狭い国(楮を細く割いた狭い国) こうぞの皮の繊維を蒸して水にさらし細かく割いて作った糸を木綿(ゆう)と言う。】 
 これを訳します。 
31年夏4月1日、天皇は巡幸した。腋のほとりの嗛間(ほほま)丘に上り、国の 〔形〕状を(ぐるり)望み見て、言った。「(ケンザイ)ああ、国を獲たのだ。 妍哉、これ、アナニヤという。 内の由布の狭い国だが、さながら、トンボ(蜻蛉)が交尾(臀呫)したよう〔形〕だ。これによって、あきづしま(秋津洲)の名となる 
 妍哉をアナニヤ(鞅奈珥夜)と呼び習わしていますが意味不明。もし、これを、ヨセフが言うように『中東方面のアラム語などの古い言い方で「結婚」の意味があるアナニーサ』であるなら、アキツ(とんぼ) のトナメ(交配)を歌う歌の頭に付けることばとして、正に相応しいことばであると理解できます。「国の姿形を眺めて初代天皇が感動して歌った、記念すべき歌の頭に付いているアナニヤが、やがて国を歌う時には必ず付けられる枕詞になった」ということで、 トナメの写真(上)とそっくりな地形(下)に注目してください。

http://hananusubito.fc2web.com/rireki.htm  ↓


3-¹『神武紀』に隠された地名『由布』由布院盆地
 この東征ではじめて国を獲た場所を近畿圏の奈良の橿原当たりにしていますが、事実はそうではないと思われます。では、ここでは隠された地名を探します。
神武天皇三一年(辛卯前 630)四月乙酉朔》夏四月乙酉朔。
神武天皇31年夏4月1日、
?皇輿巡幸  因登 腋上嗛間¹ 丘  而 廻望 国状 曰 
天皇は巡幸した。 腋のほとりの嗛間(ほほま)丘に上り、 国の〔形〕状を(ぐるり)望み見て、言った。
?妍哉 乎 国之獲矣  <妍哉   此 云 鞅奈珥夜)
「(ケンザイ)ああ、国を獲たのだ。  <妍哉、これ、アナニヤという>
雖 内 木錦²之 真■国   猶 如 蜻蛉³之臀呫 焉
内の由布の狭い国だが〔真迮国=狭い国〕さながら、トンボ(蜻蛉)が交尾(臀呫)したよう〔形〕だ。
由是 始 有 秋津洲³之 號也   
これによって、あきづしまの名となる

3-² では、地名について分析します。
¹ 腋上嗛間丘 わき〔わきの下〕の上(ほとり)の 嗛₍ほおばる)丘≒福間山² 木錦は、旧仮名遣いで「ゆふ」)が「木綿」と書かれた[5] 木錦と由布は同音
³ 秋津洲(別府湾に古来から「阿岐」の地名が見られる。(古田)ここに「津」がつけば、蜻蛉と同音 
繰り返しますが、
 妍哉をアナニヤ(鞅奈珥夜)と呼び習わしていますが意味不明。これを、ヨセフが言うように「中東方面のアラム語などの古い言い方で「結婚」の意味がある「アナニーサ」であるなら、アキツ(とんぼ) のトナメ(交配)を歌う歌の頭に付けることばとして、正に相応しいことばであると理解できます。
 ということで、日本書紀の出典が多岐にわたり、しかも合成であるという仮説が成り立つでしょう。
 ”出典が多岐”というのも、倭王朝とは、諸氏の指摘(略)にもあるように、本貫は日本史上有名な任那で半島南部地方であったと思わざるを得ないからです。
 そこの王族は金官伽耶の「金庾信」ゆ信の系図。 金官伽耶とういう国名は、駕洛国*を新羅法興王の時代に名付けた当て字名で、実態は以下の様であるという。
「駕洛の初代王金首露の本名は悩窒‐青裔=カシ‐パリ=『金‐青』となる。郷札*³でカス(金)という意味ががある。そこで、カシ‐パラで金官。³) 金青>金官>金海と時代がさがるにつれ意味が薄れるにつれ表記が変わったという。驚いたのは、日本初代天皇神武が即位した宮を 『日本書記』橿原宮(かしはら)古代日本語で「は」=Pa。 『古事記』可之波良(かしぱら≒橿原)宇袮備(ウネビ)宮、秦氏と多氏については、彼らの人物名に「青」の字を多く見ることができるという(谷川)というのです。

4 まとめ 
 この場所は、カムヤマトイワレヒコの時代に初めて国を獲て部族の土地になりました。数百年後、この地は、隋書東夷伝にもあるように、秦王国の土地です。華夏(中国人)の江南と同じような言葉が通じたとあります。地元の有力者が裴清に教えたのでしょうか。 中国から何らかの理由で渡来した人の国であった可能性も高いと思います。というように、今の大分県湯布院盆地のことです。
 亦、この場所について、古田武彦氏は、大分県の湯布院盆地と福間[万]山、別府湾には、古来「阿岐」の地名が見られ、現在「安岐」。 ここに港/湾「津」が付けばアキツ。 本来の名前は「腋上のほほまの丘」、奈良盆地に[掖上]「本間」という地名があるので、大和奈良だとの定説。 「嗛間」は「ふくむ」ほおばる意味だ。 本間ではなく福間の方がぴったり合う。 大分県別府付近の湯布院盆地には福間山がある。「腋・わき」[上・ほとり」と読む。 と断言しています。  とても合理的で解かり易い説明です。 修正執筆 阿部 学こと「manase 」 (前段地形の比喩に秘密があった)2019年 11月 7 日 
5 あとがき
 この『日本書紀』巻三 神日本磐余彦天皇は、神武天皇について書かれているのですが、九州の日向から奈良の橿原に東征する話です。そこに湯布院盆地と福間山の話が残っていたのです。21世紀の科学の前には、記紀編纂の様子は見えてしまうのです。古代の有力者達をだませても1300年たてば解ることもあります。
 話はアラム語と失われた10部族に戻りますが、私のルーツでもある山形県庄内地方の「おばこ」も語源は「栄光ある初子」hot-bakhorだそうです。 昔の日本人は”h”音が聞こえずK音に聞こえました。”k”に変化。実は、このあたりの微妙な発音(hとɧ)は、多くの日本人は今でも聞き分けできません。神武紀には、トシュエイグモというアラムヘブライ語からの当て字➡土蜘蛛もあります。

注 槵触神社(くしふるじんじゃ)は、 宮崎県 西臼杵郡 高千穂町 に鎮座する神社である。古事記の天孫降臨の段でニニギは、「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」に降り立ったと記されているが、その地の比定地の一つである槵触(くしふる)山の中腹に鎮座している。主祭神は邇々杵命(ニニギ)で、相殿に天児屋根命「アメノコヤネ=鎌足の遠祖だそうだ  一方、天孫降臨の一説が金庾信伝のそれと(注)とても似ています。金庾信 12 世の祖の首露は漢の建武 18 年壬寅(AD42)に、亀旨峰(きじほう)に登り駕洛の九村を眺め、ついで、この地に来て国を開き、国名を伽耶といい、のちに金官国と改名した。 先祖の首露は「su-ri,SU l と発音し、亀旨峰の古訓という。天神の首露は山霊と見ることができ、金官加羅国の国魂と考えられる。」。*列伝P29注
郷札*³は漢字の音と訓を利用して朝鮮語を表記したもので、日本の万葉仮名のような性質のものである。郷札はそれだけで朝鮮語の文を完全に表記することができる。 駕洛国*とは、金官伽耶・金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国の慶尚南道金海市に有ったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。
他の引用文献日本書紀(朝日新聞社本)
参考(ウィキ)
参考、山田宗睦 日本書紀原本現代訳

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