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私の感情を言語化してくれる人間は若林正恭だけでいい

最近、Twitterを見ることに疲れてしまった。
じゃあ見るなよと思われるかもしれないが、見たいものは見たいし、見たくないものは見たくない。
不意に目に飛び込んできてしまうから困ったものだ。

私は、オードリーの若林さんが好きだ。
彼に共感する人間、救われた人間はたくさんいる。
私もその一人だ。

私は、若林さんの言葉が好きだ。
もっといえば、彼の脳が好きだ。思考回路が好きだ。

そして、その思考回路が自分と似ているとすごく思う。
※自分の思考回路が好きと言っているわけではない。

だからこそ、自分が感じたことでうまく言語化できなかった感情や事柄をあんなにうまく言葉にできるのを心底尊敬する。

で、本題だ。

Twitterの何に疲れたのか。

みんなが「若林正恭とは」というテーマで、とにかく芯を食った投稿を、自分が一番理解しているんだと言わんばかりの投稿を見ることに疲れてしまった。

多分、みんなそんなつもりもないのかもしれないし、無意識のうちに自分も投稿しているのかもしれない。そもそもTwitterをはじめとするSNSなんて、何を表現しようと自由だし、ここに書いていることもまさに表現の自由だ。

自分が見なければいい。それだけの話。

最初はこんな風に思っていなかった。
同じ考えの人たちと気持ちを共有しあえて、嬉しい気持ちだけだった。
今も嬉しいものは嬉しい。

でも愛が強すぎると、どんどん苦しくなってくる。

私にとっては若林さんのことが大きかったけど、こんなの全部の話題に通じる話で、要するに「Twitterでいかにうまいこというかのマウントの取り合い」に疲れたのだ。

私は、文章を書く仕事をしている。
Twitterのあの限られた文字数の中で、みんなの気持ちを代弁し、それを言語化できる人間が評価される世界にいるのが、苦しくなった。
他の人よりも「言葉」に関する劣等感が強いのかもしれない。

私も言葉で表現したい感情がたくさんある。
でも、それにはきっとさまざまな知識や経験が必要で。

話を戻すと、私は、それぞれの若林正恭のとらえ方を大事にしたい。
この人芯食ってるな~的を得てるな~
とこちらが感じるのは、佐久間さんや伊集院さんみたいな芸能に携わっている人だけでいい。

もっと言うならば、私の感情を言語化してくれる人間は、若林正恭だけでいい。





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