曖昧な記憶、初めてのワイン
My Film Journey -あの旅を綴る- 1st roll. 第十三話
初めて訪れたウィーンの写真の中で、いまだに曖昧な記憶の場所がある。郊外の小高い丘にある展望台のような場所でウィーンの景色を眺めたようだが、それがどこだったのか思い出せない。微かな記憶を手繰り寄せながらGoogleマップで調べてみた。「確か、市電がVolksoperというオペラ劇場の前を通って、その先に向かったような気がする……」市電の路線図をたどり、地名を見ていると「Grinzing」という名前に聞き覚えがあった。
「新酒……ワインの新酒……?」Grinzingという地区が新酒のワインで知られていると誰かから聞き、訪れたような気がする。具体的にどこで、どのようにワインを楽しんだかの記憶は曖昧だ。写真も残っていない。ただ、一緒に美味しいウィンナシュニッツェルを食べ、白ワインの新酒を飲んだ記憶がある。いや、むしろ記憶というより、印象に近いのかもしれない。これがおそらく、私にとって初めてのワイン体験だった。
26年前の出来事――遠い昔のようで、実際にはついこの間のような気もする。時間はいつの間にか過ぎ去り、振り返ればここ15年もあっという間だった。10代後半から20代の私は、人生に迷い、なかなかその時々を楽しむことができなかった。しかし、30代半ばを迎える頃には、人生の方向性が定まり、人間関係も充実してきたように思う。そして、その頃、東日本大震災という未曽有の災害に遭遇した。
震災の記憶は薄れつつあるが、特に震災翌日から数日間、そして3月後半から4月中旬の記憶は断片的で曖昧だ。唯一、勤務していた病院の寒い外来ベンチで夜間業務の合間に仮眠を取ったことや、祖父の葬儀、仙台から石巻まで親族の安否確認のため自転車で往復したことは覚えている。当時、病院での業務に追われる日々を過ごし、買い物に行くことすらままならなかった。何を食べていたのかさえ記憶にない。
あの頃、スマートフォンがあれば、日々の出来事や状況を写真やメモとして記録できただろう。しかし、当時はガラケーしか持っておらず、写真を撮る習慣もなかった。もし記録が残っていたなら、あの時間の断片をもっと鮮明に思い起こすことができたのかもしれない。
写真の本質は、記憶を補う道具として普遍的である。しかし、現代の写真は進化を遂げ、その用途や可能性が大きく広がっている。研究によれば、人間の自伝的記憶は動画よりも写真と共通点が多く、写真は記憶を呼び起こす重要なきっかけとなる 1)。また、写真は記録や保存の一形態として、歴史や文化を語る上で重要な役割を果たしている 2)。写真は瞬間を捉え、記憶を補い、社会や個人の歴史的記録に貢献する力を持つ。
写真が記憶を支える力は、個人の生活だけでなく、社会全体の記憶にも大きな影響を与える。だからこそ、趣味であっても撮影する者は進化し続け、自分の価値観に基づいて撮影スタイルを磨き、瞬間を切り取ることを楽しむべきだと思う。これからも未来の自分に向けた記憶の断片を、一枚一枚丁寧に積み重ねていきたい。
All photos of my journey were taken by abeken with Ricoh R1s.
参考文献
Bennett J. Visual episodic memory and the neurophenomenology of digital photography. The Routledge Companion to Photography Theory 2019.
Bolívar S. LA FOTOGRAFÍA: MECANISMO DE REPARACIÓN SIMBÓLICA FRENTE A LA DESAPARICIÓN FORZADA. Hagamos las paces 2020; 167-186.