The Long And Winding Road――『グレース』と『ゴンドラ』

※初出/『週刊文春CINEMA!』(2024秋号 9/26発売) 

 ヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』には複雑な思いを抱いている。日本財団や電通やユニクロは関係ない。作品のできばえじたいも悪くない。そういやヴェンダースって、盛りあがる筋書きなど用意せずとも持ち前の高いカット構成力で物語性ある展開をつくれちゃう単純にうまい監督だったよなと、しみじみ思いださせてくれる映画でもあった。
 同様に強く思いださせられたのが青山真治だ。役所広司が寡黙で柔和ないわくある世捨て人的主人公を演じ、家出少女たる姪と生活をともにすることになる和製ロードムービーという内容に触れたら、『ユリイカ』を想起せずにいるのはむつかしい。『PERFECT DAYS』における柄本時生の役柄は斉藤陽一郎を彷彿とさせるし中野有紗は(台詞の有無はともかく)宮崎あおいの存在感を受けついでいるようにも見える。既存の曲名をタイトルにしているところも一緒だ。
 むろん、東京二三区と九州というロケーションのちがいは決定的なほどにおおきい。『PERFECT DAYS』にPTSDを患う人物設定などはないし連続殺人事件も起こらない。が、作品後半の最もドラマチックな場面(三浦友和がからんでくるあのくだりだ)で役所広司がいきなり喫煙したあげくにごほごほ激しく咳きこむ芝居を目にした瞬間、これやっぱ『EUREKA ユリイカ』じゃんと筆者は心で叫ばずにはいられなかった。
 そもそもの話、青山真治が『ユリイカ』を監督する際に念頭にあったのはほかならぬヴェンダースの『さすらい』だったことはまちがいない。どちらもモノクロ(『ユリイカ』は特殊な技法を採用)の長尺映画で重い過去を背負い傷ついた人々の癒やしの希求を物語っているのみならず、なによりロードムービーという表現形式をきわめつくす野心的試みとして両作にはかさなるものがあった――長旅のすえに『さすらい』は「変化の容認」を、『ユリイカ』は「病との共生」を物語上の結論として提出する。
 そうしたことが頭にあった筆者は『PERFECT DAYS』をこう受けとめた。これは『さすらい』の作家からの『ユリイカ』に対する二三年後のアンサーであり、二〇二二年三月二一日に亡くなった青山真治への挽歌としてヴェンダースは撮ったのではないかと。
 当初はPR用の短篇ドキュメンタリー映画が企画されていたが、二〇二二年五月頃に来日したヴェンダースの発案で長篇劇映画として『PERFECT DAYS』が撮られることになったという製作上の経緯が報じられている。ロケハンでデザイナーズトイレを見てまわった結果とされているが、二カ月前の青山真治の死もその企画変更の主たる動機だったのではないかと、作品鑑賞直後の筆者は願望まじりに想像してしまった。そうでなければ役所広司にロードムービーの終盤でわざわざあんなふうに派手に咳きこませないだろうと。
 しかしメディアで言及される名前は小津安二郎ばかりだ。ヴェンダース自身もインタビューで「小津作品の精神にのっとった映画を作ったと思います」などと言っちゃってるため『PERFECT DAYS』は公開当時すっかり小津オマージュ映画みたいなあつかいになってしまっていたが、私見では役所広司の役名のほかにその痕跡はさっぱり見いだせない。どこが小津なの? という感じである。むしろ青山真治であって『ユリイカ』のアレンジじゃないかと筆者は歯がゆくなったものだ。
 それなのにヴェンダースはあろうことか、LetterboxdのXアカウントに投稿されたインタビュー動画の「Four Japanese Favorites」なる質問に対し、『生きる』、小津作五三本のうちのどれか、『砂の女』、『ドライブ・マイ・カー』などと答えちゃう始末だ(https://x.com/letterboxd/status/1752433835776803302)。これにはさすがにがっくりきた。せめてここで『ユリイカ』をあげてくれれば胸のつかえもとれてすっきりしたのにと思いつつ、いまだ筆者はもやもやを募らせている――勝手な想像のひとり相撲で申し訳ないが。
 ではなぜ今回そのもやもやから話を開始したのか。ロシア製ロードムービー『グレース』をとりあげたいと考えたからだ。
 興味ぶかいことに、そこにはヴィム・ヴェンダースも青山真治もいる。なんならアッバス・キアロスタミもちらっとあらわれるがそれはともかく、『グレース』はいわば『さすらい』ではじまって『ユリイカ』で終わる映画なのである。あたかも前述した筆者のもやもやを先どりしていたかのごとく、もともとはドキュメンタリー作家で劇映画を手がけるのはこれが初だという監督イリヤ・ポヴォロツキーは、制作時は存在すら知らなかったはずの『PERFECT DAYS』へのアンサー(としか思えぬような映画)をロシア南西部でたまたま撮っていたことになる――ともに二〇二三年の発表作ゆえ撮影時期もかぶっていたかもしれない。すなわち映画史ならではのあきれちゃうような偶然(読書家の主人公という設定で古書購入場面まで共通するのは笑ってしまう)がここでも進行していたわけだ(以下はネタバレというか具体的な細部の説明になるからそういうのを避けたい向きはご注意を)。
 一台のバンに乗って巡業生活をいとなむ父と娘の旅模様が描かれる『グレース』が、『さすらい』ではじまって『ユリイカ』で終わる映画であるとはつまり、どういうことか。
 『さすらい』の導入部といえばそう、リュディガー・フォーグラー演ずるあのなんともすがすがしい野糞場面をだれもが思いおこすだろう。『グレース』のファーストショットがそれにはっきり対応しているのだ。
 山岳地帯の川辺で少女がしゃがみこみ、濡らした布で股間をごしごしして経血をぬぐう描写を『グレース』は冒頭にすえている。殊に台詞の少ない本作において、それは「母の不在」という意味にもつながる重要な説話的役割をになった(初潮の可能性も示唆する)ショットであり、扇情的な効果をねらった演出には見えない。と同時に、バンを運転する中年男が少女の父親であることを示すうえでの布石になっているとも解釈できる――年齢差の際だつ男女が親子であると台詞で明言されるのは作品中盤まで持ちこされるものの、たとえば長時間駐車中のバンから出てきた娼婦(らしき女)に少女が言葉ずくなに相談し生理用品をゆずってもらう川辺場面直後の推移(そばにやってきた父親に対し少女は「汚いよ」と告げる)など、旅するふたりの関係性をくみとらせる細部がちりばめられてもいる。
 そうした物語内容に加え、川辺で少女がしゃがみこむ排泄姿をとらえたファーストショットが『さすらい』における野糞場面の引用=変奏であると断言できるのは、『グレース』のその後の展開がいっそうヴェンダース初期代表作の軌跡をなぞることになるからだ。
 『さすらい』は映写機のメンテナンスにたずさわる修理技師が、やけくそな行動で自家用車を水没させた男を見かけて助手席に乗せてやり、ポルノ映画ばかりが上映されるようになった西ドイツ各地の映画館を大型バンでまわる旅路がドラマの主軸となっている。対して『グレース』は、バンにプロジェクターを積んで移動映画館を運営するかたわら、立ちより先で手製の海賊版ポルノDVDを売りさばいて暮らす親子の物語だ。こうして見くらべてみれば、『グレース』の設定が『さすらい』の引用=変奏であることは明白だろう。
 その意味では、『グレース』と『さすらい』の影響関係は出発地点だけにとどまるものではないと言える。同様に、『ユリイカ』の憑依が起こるのもゴール地点にかぎらない――少女がポラロイドカメラで写真を撮るのを趣味にしている描写が出てくるあたりから、コーカサスと熊本の風景はすでに接続されていたと見ることもできる。あるいは少女が序盤で「海に行くの」と宣言した時点で、青山真治の傑作は監督イリヤ・ポヴォロツキーにとっての創作の指針として機能していたのかもしれない――『グレース』の最終場面で海にたどり着いた少女がなにをおこなうかを目にすれば、『ユリイカ』終盤の二箇所で演じられる儀式 ﹅ ﹅ がただちに想起されるはずであり、そこへいたるための道が最初から着実に整備されていたのだと理解できるだろう。ぜひそれをスクリーンでたしかめてほしいと思う。
 今回もさらにとりあげたい作品がある。こちらはロードならぬロープウェー ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ムービーたる『ゴンドラ』というドイツとジョージアの合作映画であり、『グレース』以上に極端に台詞を排した(聞きとれる言葉はひとつかふたつしかないが、サイレント性よりもむしろ音響面の演出への注力が認められる)コミカルな一篇だ。ロープウェーの女性乗務員ふたりが索道ですれちがうタイミングにあわせて演劇的に合図を送りあう悪ふざけの発展ぶりを軸に展開される本作は、ガールズムービーの古典たるヴェラ・ヒティロヴァ監督作『ひなぎく』をまっさきに思いおこさせるのでその向きには好まれるだろう。限定されたロケ環境のなか、コスプレしたりゴンドラを飾りつけるなどサプライズを仕かけて無言で遊ぶ様子をひたすら描くのみゆえ、ともすれば単調になりそうな画面の連鎖を芝居の妙とカット構成の工夫により観客の興味を最後まで惹きつけることに成功している。ちなみに筆者はこれが『世界でいちばんのイチゴミルクのつくり方』の監督の新作であることを鑑賞後に知り、的確な構図を組みあわせるセンスがここでも発揮されていたのだなと納得した次第だ。

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