黒田杏子先生が逝去された。いつき組の自分にとって、組長(夏井いつき先生)の師匠である杏子先生は大師匠のような存在であるが、お目にかかったことはなかった。
ただ、『瓢箪から人生』で描かれた、
の大らかなイメージと、昨年の道後俳句塾でのコメントをお聞きして、いつかお会いできたらと思っていた。
杏子先生の足跡を尋ねるため『証言・昭和の俳句』を読んだ。昭和の俳句史が臨場感たっぷりに語られた名著だった。
何が素晴らしいって、話者の人柄や雰囲気が、文面から伝わってくることである。単に一問一答形式でインタビューしてもこんな風にはならない。杏子先生は、季語を立てるように、人を立てる方だったのだと思う。そのための仕事ぶりは、前がきから伝わってくる。
自分が仕事をしていて、こうした条件を示す人がいたら「うわ、めっちゃプロフェッショナル来た!」と思うだろう。
そして、その意気が結実したのが本書である。
証言者の先生方が過去を語るにあたって、自ずから俳句との向き合い方について語る場面もあった。その部分を以下に抜粋した。これだけでも、濃密な対話があったことが感じられると思う。
名盤と言っていいような、俳句論の数々が本書にはあった。
それを引き出した杏子先生は、俳句の実作に留まらず、プロデューサーとして稀有な資質を持っていたと言えるだろう。証言のあとがきで杏子先生が
と書いている部分があるが、きっとプロデュースせずにはいられないタイプだったのだと思う。
そして、そういうプロデューサー目線で、組長は一際目立つ存在だったのではないだろうか。
冒頭に記した、杏子先生の兼光さんへの言葉は、普通に見ると身内への親愛から生まれた言葉と取れる。でも、『証言・昭和の俳句』を読んだあとにこの言葉を見ると、
「あなた、夏井いつきのパトロンになる覚悟はあるの?」
と問うているようにも取れる。それくらいのプロデュース魂が、『証言・昭和の俳句』にはある。
最後に1つだけ、去年の道後俳句塾の思い出を。とある句で、金子兜太先生を「兜太」と詠んだ句があった。その句に対して、杏子先生は、
とコメントしていた(他の先生方はその点は特に気にしていなかった)。
これが、僕の中で引っ掛かっていた。
実作的には「兜太先生」と書くのは難しい。杏子先生もそれはわかっていたはずだ。なのになぜ、このコメントをしたのだろうか、と。
その疑問が、今回『証言・昭和の俳句』を読んで解けた気がする。
道後俳句塾には、かつて兜太先生も参加していた。コメントの「こういう時」というのは「こういう、最近まで兜太先生と一緒だった句会に投句する時」の意だと思う。
杏子先生は、そういう人情に篤い先生だったのだと思う。季語を大事にするように、出会った人々との思い出を大事にして、その人が輝けるような場所を誠心誠意プロデュースしていく方だったのだと思う。
改めて、一度お目にかかってみたかったです。
ご冥福をお祈り申し上げます。