日記
遅すぎた恋だった。
高校3年間、枯れたJKライフを送ってきた私は恋愛という感情にかなり鈍くなってしまっていたのだろうなと今になって思う。
きっと好きだった。自覚するもっとずっと前から。ただそれに気付かなかった。
自覚した瞬間のことは今も鮮明に覚えてる。
「今月末で小木くん(仮名)辞めるから、仕事引き継いどいてもらってね」っていうパートさんの言葉。それを聞いた瞬間、私は——ありきたりな表現をすれば、自分の時間が止まってしまったような。そんな感覚をこの身に味わった。
彼がバイトを辞める二週間前のことだった。
彼、小木さんは、バイト先の同期だった。
去年の夏頃に始めた百均のバイト。私がバイトを始めて1ヶ月もしないぐらいに、その人もうちの店でバイトを始めた。
年齢は私より二つ上。私は大学でいうところの1回生で、彼は3回生だ。
うちは固定シフトだから、毎週決まった曜日、決まった時間にシフトに入る。
私と小木さんは日曜の昼からのシフトに入っていて、採用されてからは週に1回、毎週日曜の13:00からラストまでいっしょに働いていた。
常に人員の不足しているうちの店。はじめの頃は私と小木さんも新人同士だったし、もう一人、1個上の先輩が日曜昼に入ってくれていたけれど、その先輩が午前に移動してからは午後からは二人で店を回していた。
社員もいない、店長もほとんど店に来ないような鬼みたいな環境で、慣れないながらも二人でなんとかやってきた。我ながらよくやっていたと思う。
同期と言ったって小木さんは二つ上だし、私は基本的には敬語で話してた。一個上の先輩にはいつの間にかタメで話しかけてこられるようになってたけど、小木さんは私に敬語で話してくれていた。でも別に、敬語だからって他人行儀な感じはしなくて、ほんとに丁寧な話し方をしてくれていて、そんなところが好ましかった。
その丁寧な話し方は、小木さんを象徴しているように思えた。
小木さんはいつだって優しかった。いつも、優しい。そしてよく気が利く。仕事もできる。
以前、お客さんが百円硬貨を間違えて外貨を出してしまったときがあった。うちは手動のレジだから店員が目で見て精算するんだけど、私はそれを見落として外貨を百円硬貨として扱ってしまった。お客さんが店を出たあとにそれに気付いて、私が焦って「どうしよう……!」と声をあげたら、小木さんは私が動くより先に走り出して、そのお客さんを探し出して代金をもらってきてくれた。本来なら私が行かなければならなかったのに、と申し訳なさいっぱいで謝ったら、彼は「いやいや。いいんですよ。大丈夫」と笑顔で返してくれた。
小木さんは本当に優しい。
私がレジ締めで手こずって帰り時間が遅くなってしまったときも文句の一つも言われなかったし、むしろ「これは大丈夫?」と一つ一つミスがないか確認してくれた。
私がレジ締めでなく掃除担当のときは、レジ締めの彼がやる必要はないのにシャッターキーを取りやすい位置に置いておいてくれたり、私が「自動ドアの電源を切ってこよう」と動こうとしたタイミングで、まるで見計ったみたいに電源を落としてくれたり……。(さすがにこれには驚いてちょっと笑ってしまった。なんでわかったんだろ?)
そう……。小木さんはそういう人なのだ。
側から見れば、すごく気遣いのできる人。自分の仕事以上に、私のフォローまでしてくれる。でも、小木さんにとってそれは多分普通のことで。
それを私もわかってるつもりでいたし、だからその優しさを意識しないようにしていたのかもしれない。勘違いしたらだめだって。
実際、本当に彼がバイトを辞める間際まで、私は小木さんのことを頼りがいのある同期としか思ってなかった。
ただ少し。ほんの少し、揺れるときがなかったとは言い切れないけれど。
小木さんが、「掛け持ちバイトの飲食店の割引券、よかったらいりません? 渡せる人もいないし……」と言ってくれたとき、うちの店以外で働く小木さんの姿を見てみたいと思った。
いつも敬語の彼が不意にタメ口を交えて話してくれる瞬間に胸がどきりとした。
他のバイト先の人の恋愛事情なんて気にならなかったのに、小木さんには「彼女いないんですか?」って聞いてしまった。彼は「いないです」と笑って答えてくれたけど、それにどこかほっとした自分がいた。それを気取られないように「ええ? 意外! 小木さんモテそうなのに……!」なんて返したりもした。
でも、それだけだ。それだけだった。
パートさんに「小木くんの仕事引き継いどいてもらってね」と言われて、私はそこで初めて彼がバイトを辞めることを知った。
「えっ……⁉︎ 小木さん辞めるんですか!」
受けた衝撃の大きさに、少し大きな声が出てしまった。パートさんは「あれ、知らなかった?」と当然のように言ってくるので、私は更に混乱した。そんなの聞いてない。
私は油断していたんだ。
彼は3回だから、まだ1年はあるって。
「小木くんね、実家帰るんだって」
パートさんはそう言って、退勤時間になったのでそのままお疲れ様と残して帰っていった。
実家に、帰る。
動揺した頭でその言葉の意味を考えた。
そこで思い出した、いつか彼が言っていたことを。
「僕、大学の単位全部取ったんですよ」と。
確かそう言っていた気がする。
その時は「へぇ! すごいですね!」なんて言ってあまり深く考えていなかったけど、ああ……あの言葉はそういうことだったのか。
彼が来年、京都にいる意味はないんだ。
それを理解した瞬間に、息が苦しくなった。
そして同時に、仕事も学業も完璧にこなしてしまう小木さんが実に〝らしいな〟とも思った。
あの日、そのあとちゃんと仕事ができていたかどうか正直自信はない。
どうしようもなくしんどくて。商品を整理しながら、ぐるぐると小木さんのことを考えていた。
いろいろと思うことはあった。
「この前の日曜、なんで言ってくれなかったんだろう?」
「今月末ってもう二週間しか残ってないよ」
「今度の日曜、どんな顔して会えばいいんよ」
惰性で商品を並べながらそんなことを考えて、気を抜けば涙が出てしまいそうな自分がいて、
——そこで私はようやく「ああ、わたし。小木さんのこと好きだったんだ」ってわかった。
あまりにも遅い。遅すぎた。
もう二週間しかない。
あと二回しか会えないのに。
迎えた次の日曜日。
バレンタインデーの翌週だった。
何も知らなかった先週。小木さんに渡したのはチョコレートなんかじゃなくて、私がカッターで切ってしまって買い上げた二つのお掃除シートのうちの一つだったな……なんて思いながら店に向かった。
自覚するというのは恐ろしいことで。
まず始めの「おはようございます」の挨拶から変にどぎまぎしてしまう。
それを何とか切り抜けて仕事を始めるけれど、いつも通りに話したいのにどんな話をしていたのかわからなくなって、会話が少なくなってしまったり。残り時間は減る一方なのに。
「……小木さん、バイト辞めるんですか?」
意を決して直接聞いてみれば、やはり「そうなんですよ」と是の返事が返ってくる。
「なんで教えてくれなかったんですか?」なんて聞けるわけもなく、「全然知らなくてびっくりしました!」なんて、結局笑いながら言ってしまった。
聞けば、1ヶ月前の1月中旬頃には店長に話を通していたみたいで。
余計に「なんでもっと早く言ってくれなかったんだろう」という思いが強くなる。
わかってる。
私はただの同期で。たまたま日曜のシフトが被ってただけで。だから私に言う必要なんて何もなくって。……でも。
「小木さん辞めちゃったら寂しくなりますね……」
私に言えたのはそれが限界だった。
二週間なんて、あまりにも短すぎる。
たった二週間、たった二日で。もう今更、何をできたと言うんだろう。
あっという間にラストの日になった。
それまでの一週間、私は考えた。
最後の日、絶対に言っておきたいことを二つ。
一つは「たくさんお世話になりました」
もう一つは「ありがとうございました」
告白する気はなかった。
小木さんのことは好きだったけど、別にどうこうなりたいとか、そんなことは思わなかった。
だから、告白する代わりに最後の「ありがとう」を心から。そしてそこに「好きでした」という気持ちも乗せて。気付かれなくていい、ただただこれまでの感謝を伝えたかった。
それと、これは絶対伝えたいことにはカウントしなかったんだけど、できたらLINEを追加して、「引継ぎの件でわからないことがあったら連絡してもいいですか?」って聞こうと思った。
仕事をダシにするのなんてずるいけど、でもそれしか私が小木さんに連絡できる理由はなかったんだ。だから、できたら勇気出して言おうって決めた。
小木さんはやっぱり最後まで優しくて、引継ぎの仕事も丁寧に、丁寧すぎるぐらいに詳細に教えてくれた。
事細かに書かれたメモを作ってくれて、それを私に渡して実地でも教えてくれて。
仕事自体は理解すればそんなに難しいものでもなかった。私も教わりながらこなして、「そうそう。上手上手。完璧ですね!」って小木さんも褒めてくれて。
おまけに、私があれだけ勇気出して言おうとしてた「わからなかったら連絡してもいいですか?」の言葉を先に、彼の方から「わからないことあったらいつでも気軽にLINEしてきてください」って……。
私がほしい言葉をサラッと言ってくる。
私もずるいけど、小木さんはもっとずるい。
でも、こんだけ詳しく書いたメモがあれば連絡することなんて何もないや。
そう思ってふふっと笑って、私はぎっしり字の詰まったその詳細なメモを、仕事用のメモ帳に張り付けてパタンと閉じた。
大きなトラブルもなくそのまま閉店を迎える。
戸締りをしてシャッターを下ろし、店の外に出た。
最後の挨拶。
人の少ない夜の商店街で、向かい合って、私は小木さんにお辞儀をする。
「お疲れ様でした。これまでたくさんお世話になりました。……ありがとう、ございました」
こちらこそありがとうございました、そう爽やかに笑って「じゃあ」と歩き出した小木さんが商店街を抜けるまで、私は彼のその高くて大きな背を見つめていた。
言いたいことはちゃんと言えた。
これでよかった。
ああ、終わったんだなと思った。
でも不思議と悲しくはなかった。
優しいあの人の未来が、どうか幸せであってほしいとただただ願った。
家に帰って、LINEを追加する。
メッセージを添えて送れば、小木さんからもすぐに返事が返ってきた。
短いやり取りのあとに終止符代わりに小木さんが送ってきたスタンプはドラえもんで、それが何だか可愛くてくすりと微笑んだ。
そして、私はスマホを閉じた。
私の二週間の恋が終わりを告げる。
純度100%の恋をした。
2月最後の日曜日だった。
しかし、人生というのはわからないもので。
それから1ヶ月が経った今日、私はもう会うことはないと思っていた彼と再会を果たした。
それは偶然と偶然が重なった上で起こった出来事だった。
私はたまたま今日、パートさんに伝えることがあってバイト先へ向かった。
自分のシフト外の月曜だ。別にわざわざ店に行かなくともLINEで事足りる内容ではあったけど、けれど何となく直接行って言う方が早いし楽だと思って店に行った。
そうしたら、そこで。彼と、小木さんと出会ってしまった。
パートさんに会うべく二階の事務所へ向かえば、そこに誰かの背中が見えた。パートさんと仲睦まじく話している様子から、最近入った新人さんではなさそうだ。
——まさか。
私は思わず足を止める。
こちらに背を向けているその人の顔はうかがえない。しかし、聞き馴染んだその声。その話し方。雰囲気。
俄には信じられなかった。こんな、こんなことがあっていいのだろうか。
足が震え、鼓動が速くなった。
そんなまさか。……小木さんがここに?
刹那、その人がこちらを振り向いた。
目が合った。
「……え、」
しかし、ここで私はハッと目を逸らした。
小木さんじゃ、ない?
目にしたその人の風貌は、記憶の中の彼とは些か違うように思えたのだ。
なんだ。
私は少し落胆した気分でふらふらと化粧品のコーナーへ歩いた。
そりゃそうか。そんな都合のいい出来事なんてあるわけないわ。ドラマじゃないんだし。
ならあの人とパートさんの話が終わるまで適当に物色しておこうと、前から欲しいと思っていた睫毛のコームに手を伸ばした。
その他にもいくつか商品を見ながら、声をかけるタイミングを見計らう。
……長いな。
しかし、いつまで待ってもなかなか切れる様子はなく、まだなの? と思いながらもう一度事務所の方へ近づいた。
すると、何故かその人はチラチラと私の顔を伺っていて、私はそれに変な胸騒ぎを感じた。思い切って事務所へ向かう。
そうしたら、その人はパートさんに向けて「小山(パートさんの名前)さん。青木(私の名前)さんが……」と声にしたのだ。
私は息を呑んだ。
「……小木さん?」
違う人だと思ったその人は、髪を切った小木さんだった。
「えっと、青木さん……ですよね?」
小木さんが私に尋ねる。
彼がそう聞いてきたのは、私もまた二週間前ぐらいにバッサリと髪を切ったからだったのだと思う。お互いに、印象がかなり変わっていた。(余談だけど、髪を切ってから初めて入ったシフトの日、別のバイトの先輩に「失恋したのかと思った」と笑い混じりに言われたんだけど、そういうのほんとデリカシーないわって思う。失恋して髪切りたくなる理由はちょっとわかる気がする)
まあ、ほんの少し微妙な時間が流れたけれど、すぐに持ち直す。
私は信じられない気持ちと、嬉しさと苦しさでいっぱいになりながらも、なんとかいつも通りの会話を心がけた。
楽しかった。単純に楽しかった。
小木さんと、パートさんと私。
勤務時間外だからか、いつもより砕けたフランクな会話に心が弾んだ。
小木さんがいなくなって大変になったこと。
小木さんが近くにいたら聞いてもらいたかったちょっとした愚痴なんかも言ったりして。
「小木さんいないから大変なんですよ……!」
って、言えたらいいのになって思ってたことをそのまま口にできたのがほんとに嬉しかった。
夢のような時間だった。
今でも夢なんじゃないかって思ってる。
それぐらいにしあわせだった。
小木さんは退職時恒例の菓子折りを持ってくるために、わざわざ実家からここまで来たらしい。
ラストの日に「お菓子はまた別の日に持ってくる」って言ってたのは聞いてたから、もしかしたらまた会えるかもとちょびっとだけ思ったりもしてたけど、まさか本当に会えるなんて露にも思ってなかった。
小木さんが持ってきたのはリーフチョコ。
ロッカールームで二人になったとき、「お気に入りで……」って言ってたから「おいしいんですか?」って聞いたら「……いやぁ、どうだろう?」って言うから笑ってしまった。
なんでそこ自信ないのって。
きっとおいしいに決まってるのに。
「いただきますね」って言って、緑の包みを一つもらった。リーフチョコ、忘れられないお菓子になったなぁ。
それからぽつりぽつりと会話をして。
話の流れで「小木さんって優しいですよねぇ」って言いかけたけど、思い直して「小木さんって丁寧ですよね」と言い直した。
優しい、って口にすれば、私の余計な感情が伝わってしまいそうだったから。
今のこの穏やかな空気を壊したくなかった。
なんとなく帰りがたくて店内をぶらぶらしてたら、小木さんが「何か探してるんですか?」って声かけてくれて、「シナモン探してて」って私が言ったらいっしょに探してくれて。
やっぱり優しいな……なんて思ったり。
今度は小木さんが「これも110円やっけ?」って言うから、何かなって覗いたら小木さんがオレオ持ってて、「それは108円です!」って答えたら「ああ! そうやった!」って二人で笑ったりして。
結局パートさんの退勤時間までいっしょにいて、三人で店を出た。
楽しかった。嬉しかった。幸せだった。
でも今、何だかとっても寂しい。
それはたぶん、今度こそもう会えない、会うことはないんだって思うから。
別れ際に言った「また遊びに来てね」が。
「また京都来たら寄りますね」が。
ああ、もうないんだなってわかるから。
片道3時間、往復6時間もかけてわざわざうちの店に寄る理由なんて、最後のお菓子を持ってきてしまったらもう何もないんだ。
帰り道、自転車を漕ぎながら、今日の思い出を噛みしめた。
嬉しくて、嬉しくて、寂しい。
でも、最後に残った感情はただ「ああ、好きだな」って想いだけ。
うん、好きだ。やっぱり好きだ。
またどこかで会えたらいいな。
でも会えなくても、それでもいい。
今日の奇跡をありがとう。
19歳最後の素敵な恋をありがとう。
ここ京都から、あなたの幸せを祈ってます。