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 私の混乱をよそに、目の前の猫がオブジェの隙間の中に入って行った。まったくもって猫というのはマイペースでそこがまた魅力的だな、なんて考えている余裕はなかった。ただオブジェの隙間の空間が歪んだのを見たと思った時には猫はその場から消えてしまった。

「はやくこい」

 今入っていった隙間からさっきの声がする。

 恐る恐る隙間に近づいたとたん、私は前後左右を失い、まるで高所から落下するみたいに吸い込まれていった。

 途中、頭に青空みたいな色の炭酸水が浮かんでいた。炭酸水みたいな青空に私が浮かんでいるのか。混乱。しゅわしゅわしゅわしゅわしゅわ…。


 私が落ちた場所はふかふかの藁の上だった。少し遅れて仰向けになった私のお腹の上に例の紙切れがひらひらと着地した。手に取ると猫の肉球のようなマークのスタンプが押してあった。

 太陽は西に傾き、夕焼けの中を鳥たちがどこかへ移動している。土の匂いがして辺りを見ると一面に広がる藁はどうやら畑の上に敷かれているみたいだった。

「おや、人間のお客さんか」

 声の方を向くと麦わら帽子を被ったキジトラ猫が鍬を片手に立っている。

「そろそろ仕事が終わるから待ってて下さい。今日はちょっとした収穫祭なんだ。一緒に麦酒を飲みましょう」

 夢の中だろうか。

「久しぶりだな。人間界の話を肴に麦酒を飲むのは」

 そう言ってキジトラ猫は付いてくるように私に合図した。

 もう私の頭では状況を把握するのは無理だと諦めた。

 会社でも毎日毎日理不尽な目に遭っている私は、こういう事にけっこう慣れている。つまり状況に逆らわずにただただ頭をしびれたようにさせて、やり過ごすだけだ。

 広い木製のテーブルに「収穫したばかりの野菜たち」が載っている。

 大きなマグカップにビールが注がれていた。

「乾杯」と言ってキジトラ猫が美味しそうにビールを飲んだ。

 その時に下顎にビールのしずくがキラリと光った。

 私も一口飲む。とても美味しい。

「ここはどこで君は何者なの?」

「あはは。ここはどこかは僕もまだはっきり知らないんだ。で、僕は畑仕事をしている猫だよ」

 テーブルの上のサラダに手を付けた。やはり美味しかった。そして話の続きを待った。

「どれくらい前かな。よく思い出せないんだけど、僕もあなたと同じで元々は人間としてここに来て、畑仕事をする猫という役割を与えられたんだよ」

「君も電車の中で新聞の切れ端みたいなものを置かれたの?」

「あはは。僕の場合は黒猫について行ったらいつの間にかここに来てたんだ。あなたの場合はおそらく白猫の発行員が通行パスを届けに行ったのでしょう。たまにそういう事もあるみたいですよ」

 どうやら、しっぽの先だけ黒い白猫がいるらしい。その白猫がここに来るための通行パスを発行する外務省の配達職員だそうだ。「ここ」がどこなのかさっぱりわからないままだが。

「あの白猫は面白くて、自分は実は黒猫だってみんなに言いまわってるんですよね。みんなとしては白猫だって黒猫だってどっちだっていいのに。まぁでも本人は王女様に遠慮してるのかもしれないけれど」

「王女様?」

「そう。この国の王様も女王様も王女様もみんな白猫だからね」

「白猫は特別なんだね」

「あはは。確かにそうかも。ここではみんな自分だけの役割を持って暮らしててさ、自由なんだけど、白猫だけは少し違うみたい。そういう意味でも特別だね。あと、地下にいるサビ猫も特別かも」

「地下にいるサビ猫?」

「あはは。まあその話はまた今度。とりあえず、畑の恵みでどんどん飲もうよ」

 徐々に神経が緩んできて、ビールを飲み過ぎた。

 目の前の喋る猫は確かに猫なのだが、一緒にいると気分がだんだんと落ち着いてくるのがわかった。

 そして「ここで猫として生きてる方がよっぽど人間らしい暮らしが出来てるよ」と云ったのが記憶に残っている。

 

 目が覚めた時には電車の座席に座っていた。私は結局座席の誘惑に負けてそのまま寝てしまったのか。ずいぶん奇想天外な夢だったな。

 少し寝たせいか気分が良くなっていた。ズボンのポケットに手を入れると何か紙切れのような物に触れた。

「まさかな…」

 紙を取り出すとそれはコンビニのレシートだった。

 いや違う。

 コンビニのレシートに見えるが違った。

 やはり爪で引っ掻いたような文字が並んでいた。

 そしてまた「私は黒猫なんです」と日本語で書かれてあった。


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