バラ色の日々 #2000字のドラマ
やっぱり調子がいい。長兵衛が文七に金を渡すくだりを何の違和感もなく話せた。ここさえ乗り切ればこの噺はもう大丈夫。楽屋にいる仲間の悔しそうな顔が浮かぶ。
紅葉亭咲太(かえでていさいた)がそう思った時、一人の客が席を立った。
咲太が楽屋へ戻ると弟弟子で前座のおそ咲が興奮した様子で「兄さん! なんですか今の文七! 最高が過ぎますよ!」と嬉しい事を云ってくれる。
「よせやい、そんなセコよいしょ」
「いや咲太、おそ咲がそう言うのも無理ないぞ。たまげたよ、本当に」
ゲストで出演してくれた兄弟子の吉咲が心底感心したように添える。
「兄さんまでやめてくださいよ」
そう言いながらも咲太はまんざらでもなかった。「やっぱり」とさえ思った。今日の『文七』は自分でも良い出来だと思った。ただ、帰った客の事がひっかかって仕方がなかった。
「あの客の耳がおかしいんだろうな」咲太がつぶやく。
「え? 兄さん何か言いました?」
「何でもねーよ。ほらこれで蕎麦でもたぐりな」
「ありゃったーっす!」
※ ※ ※
落語会がお開きになると打ち上げをしないと気が済まない仲間や師匠方がいるが、咲太は違う。独演会の後はいつも一人で打ち上げをする。「今年も無事終えられた」と一人でビールを飲みながら安堵する時間がたまらないのだ。今日も良い会だった。これまでの独演会の中で一番盛り上がっていたし、高座の出来も良かった。トリネタの「文七元結」の途中であの客が帰りさえしなければ、もしかしたら最高の気分で終われたのかもしれない。
咲太は今日の高座と帰った客と吉咲とおそ咲が言った事を何度も咀嚼し反芻するように考えてしまう。ビールを飲むペースもいつもよりも早い。
「おそ咲は調子が良いだけのように見られがちだが、ああ見えて結構計算高いところもある奴だ。さっきのもどこまで本音かわかったもんじゃない。でもアイツ、前座のくせにたまに良い落語しやがるからな。あ、吉咲兄さんがあんな事言うの初めて聞いたかも。ちょっと顔がニヤつきそうになっちまったよ。
それにしても途中で帰った客。なんだあの客。独演会に来てるって事は俺を聴きに来てるんじゃねーか。なんで途中で帰るんだよ。それとも兄さんの客か。いや違うな。そうだよ、あの客、何回か見たことあるぞ。ちょっと気になったから何回か聴いて、今日のがまずかったから帰ったってわけか。んだよ。今度来たら「なんで独演会の時、帰ったんですか」って聴いてやるか。でもなぁ。それはそうとして今日の文七は演ってて気持ち良かったな。恍惚感。そうそう。ゾーンに入った感じだったかも。毎回あんな感じで演れたらな」
この日はこのままべろべろになって寝てしまうが、翌朝起きて身支度を整え、うでたまごで軽く朝飯を済ませると咲太はすぐに散歩稽古に出かけた。
※ ※ ※
「やっぱ咲太は面白い。しかもまだ二ツ目だ。あれだけの『文七元結』が出来る真打がどれだけいるだろうか。吉咲はもう押しも押されぬ人気噺家だけど、個人的には毒が強すぎる。いや確かに落語家は好みだ。好みだとは思うけれど咲太は多くの人の心を掴む落語家になる気がして仕方ない。でもちょっと自分に酔いすぎる所があって客を置いていく時がある。さっきの文七でも少し悪い癖が出てた。出てたけどそれを差し引いても最高だったよ。ああ。こんな時に途中で帰らないといけないとは。悪い事したな。監督の激昂覚悟でサボって来た甲斐があったけど、時間的にもう限界だった。いやホントに悪い事をした。次の会には何か手土産を持って行って謝ろう」
家族ドラマに定評のある映画監督の下で働き始めたばかりのノボルは、咲太に謝る前に、まず監督以下スタッフに土下座の勢いで謝罪することになる。
が、その前にまず立ち食い蕎麦屋に寄ってミニカツ丼セットを平らげている。
※ ※ ※
「咲太兄ぃはやっぱすげえや。落語だけじゃねぇ。稽古熱心だし、必ず小遣いくれるし、独演会では必ず使ってくれる。ちょっと噺がくせぇ時もあるけど、今はまだそんなに客も入らないけどもっと化ける気がしてる。兄ぃは吉咲兄ぃの落語が好きみたいだけど、俺は咲太兄ぃの落語の方が好きだ。そりゃ吉咲兄ぃの人気はとてつもない。でも俺は咲太兄ぃの落語の方が好きだ。なんていうか、兄ぃの落語を聴いてると『ああこの人に人生をそのまま任せても良いかも』って気になってくる。俺はとことん兄ぃについてくぞ。金魚のフン、米つきバッタって言われてるのも知ってるけど構うもんか。咲太兄ぃといるとなんかでっかい夢が見られる気がするんだ」
そんな事を思いながら立ち食い蕎麦屋でミニカツ丼セットを勢いよく掻き込んでいる。30分程前、途中で帰った客のノボルが同じ物を食べていた席で。
<了>
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↓ こちらの続きを書いたのでしたん^^