あぶどぅるの世界史講義〜ローマ史編②〜
ローマ帝政理解のポイント
・各皇帝の名前と施策をセットで覚える。
・アウグストゥス〜カラカラ帝までは「パックス=ロマーナ」、それ以降は「3世紀の危機」
・土地制度はラティフンディア→コロナトゥスへ移行。
・キリスト教との絡みも重要。無関心→迫害→公認、国教化という流れをおさえる。
ローマ帝政の歴史…「ローマの平和」
アウグストゥス
・プリンケプス(元首)として事実上の帝政。
・パックス=ロマーナ(ローマの平和)の実現。
ネロ帝
・キリスト教徒の迫害をしたとされる。(→実際は放火犯としてキリスト教徒が処刑されただけ?)
五賢帝時代:ローマ帝国の最盛期
①ネルウァ
②トラヤヌス…帝国領土は最大
③ハドリアヌス…ブリタニアに長城を築く
④アントニウス=ピウス
⑤マルクス=アウレリウス=アントニヌス…ストア派の哲人皇帝で『自省録』を著す。『後漢書』では「大秦王安敦」とされる。
五賢帝時代は有能な人物を養子として迎え、自分の後継者に指名していた。ちなみに「テルマエ・ロマエ」は丁度ハドリアヌス帝の頃の話。
カラカラ帝
・212年…アントニヌス法→帝国の全自由民にローマ市民権を与える。
・カラカラ浴場(今でいう健康ランド)を建造。
ローマ帝政の歴史…「3世紀の危機」
235年〜軍人皇帝時代
→各地の軍団が勝手に皇帝を擁立して争う。
都市は重税を課されるようになり衰退、また「ローマの平和」によって奴隷供給が減少したこともあり、没落した農民や解放奴隷がコロヌス(小作人)となって大土地所有者に隷属。→コロナトゥスの成立。
ディオクレティアヌス帝
・293年…四分統治制(テトラルキア)導入
・東方的な専制君主制(ドミナートゥス)を導入
・キリスト教徒の大迫害
ディオクレティアヌス帝は「3世紀の危機」を乗り越えるため各改革に乗り出した。また宗教にもメスを入れ皇帝の権威を高めていった。
コンスタンティヌス帝
・313年ミラノ勅令…キリスト教を公認
・325年ニケーア公会議…アタナシウス派を正当としアリウス派を異端認定。
・ビザンティウムに遷都→コンスタンティノープルと改称。
・土地定着強制法…コロヌスは自由な移動が禁止されるように。
コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認する方向へ転換、首都移転も伝統宗教の残るローマを去りキリスト教的な新都を建設する試みと言われる。
テオドシウス帝
392年…キリスト教の国教化→キリスト教のみが正当とされ、他の宗教は異端として禁止された。
ローマ帝国の分裂とその後
395年…ローマ帝国は東西に分裂。
476年…西ローマ帝国はゲルマン人傭兵隊長オドアケルにより滅亡。
1453年…東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はオスマン帝国のメフメト2世により滅亡。
西ローマ帝国滅亡後はフランク王国→神聖ローマ帝国とローマの系譜は受け継がれることに。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では東方の文化と融合、ギリシア正教が発達。
キリスト教の成立
ユダヤ教
・B.C.5C頃成立、唯一神ヤハウェを信仰する一神教。
・選民思想…神と契約したユダヤ人のみが救われる。
・救世主(メシア)の到来を待望。
・律法主義…パリサイ派は律法を遵守することを強制。
ヘブライ人(ユダヤ人)は古代エジプトに奴隷として連れ去られた。モーセ指導のもと脱出し(出エジプト)古代イスラエル王国を建国するものの、後に南北に分裂。北のイスラエルはアッシリアに滅ぼされ南のユダでは新バビロニアによってバビロンに連行されるという事態に。(「バビロン捕囚」)→メシア待望の思想が生まれる。
イエスの登場
・パリサイ派の律法主義を否定、律法<信仰だ!と主張。
・神の前の平等を説き、選民思想も否定する。
・隣人愛…「汝の敵を愛せよ」
→イエスが登場し救世主とされるもののユダヤ人が待ち望んだ(自分たちの民族だけを救う)人物ではなかった。
→パリサイ派に敵視されローマへの反逆を企てていると告発、ローマ総督ピラト(ピラトゥス)によって処刑された。
→イエスは死後3日間で「復活」し救世主(メシア)とみなされる。
使徒による伝道→ローマへ
・メシア(ヘブライ語)からギリシア語のキリストへ名前を変更し布教に乗り出す。
・ペテロ・パウロの活躍でローマ帝国にもキリスト教が普及する。
ペテロの墓の上にサン=ピエトロ大聖堂が建てられた。ペテロは初代ローマ教皇とみなされている。
・当初ローマ帝国はキリスト教に対し無関心→下層市民を中心に広がる。
・『新約聖書』の成立。
ローマ帝国による迫害→国教化へ
1C半ば…ネロ帝の迫害
4C初め…ディオクレティアヌスの大迫害
ローマ人は墓地を神聖なものとし立ち入らなかったので、迫害されたキリスト教徒は地下墓所(カタコンベ)で信仰を続けた。
313年…ミラノ勅令でキリスト教を公認。←コンスタンティヌス帝のとき。
325年…ニケーア公会議でアタナシウスを正当、アリウス派を異端と認定。
次に歴史でアタナシウス派が出てくるのはメロヴィング朝のクローヴィスの改宗のとき。
アタナシウス派の主張は後に三位一体説に発展する。
392年…キリスト教の国教化←テオドシウス帝のとき。
その後の動き
4C半ば〜5世紀…教会内部で教義の分裂、論争が続くなかアウグスティヌスが教義をまとめ上げた。←『神の国』『告白録』
431年…エフェソス公会議でネストリウス派を異端とする。
ネストリウス派はササン朝ペルシアを経て唐代の中国に伝わり景教と呼ばれた。
451年…カルケドン公会議で単性説が異端とされる。