許容
人を許すことができるだろうか。
人を許すためには、まず人に何かをされなければならないわけだ。
何か、害をなすことをされる。
行動の承認のことも「許す」と言うが、他人の言動によって何らかの影響を受けることを認めることが「許す」ということらしい。
5時間の遅刻を許せるだろうか。
これは許せる。
金品の窃盗を許せるだろうか。
正直、規模による。だが、失くなってしまったものは仕方がない。きっとどうにか合理化をするはずだ。きっと許すことができる。
親しい友人や、家族の命が奪われたらどうだろう。
おそらく、無理なのだろう。しかし、あえて私はこう答えたい。
許せる、と。
鏡を見て
突然だが、私は短気だ。
世が世であれば、「吾輩は短気である」という本を書きたいくらい短気だ。
ありとあらゆる物事に、忖度なくキレ散らかしたい。
しかし、現実において私は、温厚であると評価されることが多い。これはナルシシズム的言論ではなく、自らそういう振る舞いをしていることに起因している。
私は、人前で怒らないし、他人の悪口も言わないようにしている。
理由はただ一つ。
全くもってメリットがないからだ。
たとえば、初対面の人が、いきなり誰かに向かって怒鳴りはじめたとしよう。
あなたはその人と話してみたいと思うだろうか。
自分だってそのように、怒鳴りつけられる可能性があるのに。
あるいは初対面の人が、聞こえよがしに陰口を叩いているのを聞いたとしよう。
あなたはその人と、友誼を深めようと思うだろうか。
自分だってそのように、陰口を流布されるかもしれないのに。
極論のようではあるが、真髄はそこにある。
常日頃怒っていたり、人の悪口を言っているような人間は、人から信を得ることはできない。あるいは、信を得るのに膨大なコストがかかる。
信は万物の基を成す
これは、亡くなった野村克也さんが好んで使った言葉だ。
相手を信用すること、信頼すること。
それがその場限りのものだとしても、「信」抜きにして物事はうまく行かないのだ。
だから、わざわざ自分から信を捨てるような行為をするべきではない。
怒髪天をつきそうになったり、悪口雑言を働きそうになっても、グッと堪えて、相手を許すのだ。
相手を許すことができないというのは、矜持に悖ることが許せないということでもある。
自分の生き方や、美学に反したものを受け入れることができないから、人は怒るし、不満を口にする。
それが行き着くのは、自己否定ではないかと私は思う。
たとえば、自分が痛烈に批判をした他人の行為があったとする。
しかし数日後、自分も同じような状況に陥り、自らが批判したのと全く同じ行為をしてしまった。
この「自分」は、図らずも自ずから自己否定をしてしまったのだ。
最も信のおける自分に否定されることの喪失感を否定するために、また誰かを批判する。そしてまた自己否定に陥る。
荒唐無稽だろうか。
人を大切にすることは、自分を大切にすること
ここまで読んで、全く共感いただけないのであれば、それはそれで結構。
言ってしまえば、私だって許しの境地にたどり着いたわけではない。
先述のように、私は短気なのだ。
カッとなって、堪えきれないことも多々ある。
けれど、そんな自分を許すため、こうして文を書いている。
まずもって人を許してさえおけば、自分の選択肢を狭めることはない。
人を否定したときに、
隗より始めよ
と、言われてしまうと困ってしまう。
言ってしまえば責任が生じる。
自分が見做した「悪行」は、選ぶことができない選択肢になってしまうのだ。
それは他人だけではない、自分にとっても不利益だ。
自分を大切にするためにこそ、まずは他人を大切に。
話はそこからだ。
私はとても打たれ弱い。
できることなら、限られた人とだけ接して生きていきたい。
けれども、未知の世界への興味は尽きない。
一歩踏み出すと、はじめましての人がいる。
私は、その人のいい部分を探す。
悪いところを見つけると、どうしても何か言いたくなってしまうからだ。
けど、なるべくならばそんなことは言いたくない。
わざわざ私が言わなくたって、供給過多なのだ。
今日も世界には、罵詈雑言が溢れているのだから。