応援して6年、ようやくスワローズファンになれたというお話(前編)

2021年10月26日。
パブリックビューイングに当選した私は、神宮球場バックネット裏から、ビジョンに映し出される横浜スタジアムの映像を見ていた。

青木が駆け出した。
追うようにナインがベンチを飛び出す。
マウンドにできた輪に高津監督が迎え入れられ、高津が5度、宙に舞った。

東京ヤクルトスワローズ、6年ぶり8度目の優勝だった。
そして私は、ようやくスワローズのファンになることができた。

2015年神宮球場、失意の9回ツーアウト

ヤクルトスワローズが前回優勝した2015年シーズン。私は読売ジャイアンツを応援していた。

巧みな采配で常勝軍団を率いる原辰徳。

平成の世には珍しくなった、高卒生え抜きスターとして一世を風靡する坂本勇人。

そして、2005年9月21日東京ドームの対ヤクルト戦の初回。レフトスタンドに、私が野球を好きになるきっかけのホームランを放ったジャイアンツの顔、高橋由伸。

子供の頃から野球の試合といえば東京ドームの巨人戦。
少年野球でセカンドをやっていたときこそ中日の荒木井端に憧れたが、「金満」、「大正義」と謗られながらも、チームはジャイアンツを応援してきた。

小学生のころは公園で友達とラジオを囲み、長野のドラフト1位指名を聞き届けた。

時は流れて高校3年の秋。
ヤクルトスワローズ対読売ジャイアンツのクライマックスシリーズも大詰め。

2-3と1点ビハインドの9回ツーアウト。
名将原が送り込んだのは、シーズン代打打率.395を誇る代打の切り札、高橋由伸。

球場が「あと一人」コールで沸き立つ中、かき消されそうな応援歌を耳に、起死回生の同点弾を信じた。

だが、ツーストライクと追い込まれ、バーネットが投じたアウトコースに落ちる高速シンカーを振らされ、空振り三振。

まさかこれが最後の打席になろうとは、思ってもみなかった。
恐らく、高橋由伸本人も。

神宮球場、原辰徳のひとこと

程なくして、とんでもないニュースが飛び込んできた。
なんの前触れもなく、原監督が退任を発表したのだ。

曰く、CS敗退後に神宮球場を去るとき、阿部らに辞意を仄めかしたのだという。

現場はもちろんだろうが、ファンも大混乱だ。
次の監督は誰だ。
江川か、桑田か。
憶測が憶測を呼ぶ。
ジャイアンツの監督は生え抜きにしか声がかからないから、候補者は自然と絞られる。

だが、マスコミは一斉に報じた。
現役選手であった、「高橋由伸」と。

あの日、プロ野球から「夢」が消えた

高橋由伸は固辞した。
それは監督就任ではなく、現役をだった。

古田敦也、谷繁元信がプレイングマネージャーをしていたから、時代の潮流として、プレイングマネージャーへの就任もあるのではないかと希望を持った。

プレイングマネージャーに一縷の望みを託した私の夢は、こうしてあっけなく消えた。

高橋由伸の監督就任は、余波を生んだ。それは失意の私に追い打ちをかけた。
先述した通りかつて憧れの選手だった、井端も由伸の後を追って退団。聞けば、一悶着がなければ現役を続ける予定だったというではないか。

私は大好きだったプロ野球選手をまとめて2人も奪った読売ジャイアンツが嫌いになった。
こころに、ぽっかりと穴が空いた。


打球は、遥かな夢へと続く

日本シリーズは、ソフトバンクホークス対ヤクルトスワローズ。
見る気はなかった。そもそも、野球なんてどうでもよかったのだ。

たまたま友人と野球の話をしなければ、私はもう、野球を見なくなっていたに違いないのだ。
広島びいきの友人は言う。
「広島はもう終わりだ」と。

当時広島は緒方監督の迷采配が話題になっていた時期で、彼も諸々の理由で、広島を見切ったのだという。
そんな彼が言った。
「ヤクルトは面白いぞ」と。

ヤクルトなら、今試合をやっている。
日本シリーズはソフトバンクに圧倒されていたが、まだシリーズは終わっていなかった。
第3戦の舞台は、あの神宮球場。

山田という選手がいた。
私は彼のことを微塵も知らなかった。
その試合で山田は、3打席連続のホームランを放った。

滅多に起こるものではない。
インコースの難しいボールを華麗に振り抜くと、ボールは軽々とスタンドへ。
実況の「長嶋茂雄に並ぶ」という台詞が、目の前の奇跡の偉大さを物語っていた。

私が神宮球場で失った夢は、神宮球場にあった。

私はその夜から、ヤクルトスワローズを応援することに決めた。


「暗黒」と「ニワカ」

だが、それからは今までに経験したことのない日々だった。
2016年、前年の優勝が嘘のような失速。

大学生になった私は週に一度のペースで神宮球場のライトスタンドに通ったが、行けども行けども負け試合。
それでもスワローズを応援しようという気持ちはブレなかったが、勝つことが難しいことだということを、初めて知ったシーズンでもあった。

私は言わば、優勝したチームを好きになった、「ニワカ」ファンでしかなかった。
応援に、歴は関係ないと言うかもしれない。
それでも、池山や青木、古田のユニフォームを着るオールドファンの背中になんとなくの居心地の悪さを感じながら、私はライトスタンドに通ったのだ。

七夕の悲劇と、10点差の奇跡

翌2017年と言えば、その辺のバッターの打率より低い、勝率.319。泣く子も黙る暗黒シーズンだった。

通称「七夕の悲劇」、真中シャワー事件の試合は現地にいて、試合終了直後は、ライトスタンドで真中監督に文句を叫んでいたのを覚えている。

この試合は、どうにもブルペンの首が回らなくなった真中監督は、小川をクローザーとして起用。
その小川が最終回に打ち込まれ、まさかの大逆転負けを喫したのだ。

だが、帰り支度をしていると、「クラブハウス前で暴動が起きているらしい」という情報が入ってきた。
慌てて現地に向かったとき、すでに騒動は収まっていた。そのときにハッとした。

クラブハウスに集った人々は、皆口々に、「選手は悪くない」と、言っていたという。

小川も、直々にマウンドへ向かった真中監督も、必死なのだ。
そんな現場に、我々がどうこう言っても仕方ないのだ。

その日以来、私は選手を信じなかった日はない。
きっと他のファンもそうだと思う。

だから、あの奇跡が生まれたのだ。

そう。その直後の7月26日。
神宮球場、中日戦だ。

この日、ヤクルトは早々に10点を奪われ、敗色濃厚なゲームを展開していた。

だが、7回に潮目が変わる。
代打中村が2ランホームランを放ったのだ。
一矢報いたかと満足仕掛けた直後の8回が、「奇跡」だった。
打線が繋がり、まさかの一挙8得点で同点に追いついた。

繰り返すが、これをやってのけたのは、後にトータル勝率.319という直視し難い球史に残るひどい成績で最下位になったチームなのだ。決して、強いチームではなかった。

やはり、スワローズには夢があった。
どんなに弱くても、そこはかとなく希望を感じさせてくれた。

私は10点差までであれば、絶対に試合途中で帰らないことを心に誓った。
そして今まで、一度もゲームセット前に席を立ったことはない。

もちろん、応援時と、神宮グルメを楽しむときと、相手の攻撃中に用を足す以外には、だが。

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